目を閉じると薄荷の様な寂しさがすっと胸を流れる。
残暑というにはあまりにも記憶に薄い真夏が過ぎて、九月もそろそろ終わる。
先日の台風が僅かに残っていた夏を攫い、代わりに町を覆う煙たいような、甘みを含んだ夕方の風の香りが秋の訪れを感じさせる。
九月は終わりの季節だと、思う。
一年の区切りというものは人によって様々で、一月で区切る人もいれば四月を初めとする人もいる。自分も十二月には一年の終わりを、三月には別れの期を感じるけれど、それらは次なる始まりがすぐに待ち構えている。
私にとって九月はただただ終わるだけの季節だ。
新学期が始まり、夏休みという非日常がどんどん消えていくあの落ち着かない感じ
高校の頃は文化祭が九月だったから、その所為もあるのだろう
だいたいのイベントは九月で終わり、そこから先は平凡で日常的な生活が続く
大学の頃は単純に夏休みの終わりだった。
そういうものが混ざり混ざって、九月の記憶を作っているのだろう。
九月には、糸が解けるようにするすると様々なものが終わっていく。
そして十二月という一年の終わりを先に見る。
「今年も、もう終わっていくね」
と呟いて、早くなった夕暮れと肌寒くなった空気の中でデジャヴュに惑いながら、何か忘れてきたような、何か失くしてきたような、喪失感に襲われる。
何かを失くした九月があったのかもしれない。
感傷的というにはあまりにも漠然としていて、帰る場所が見当たらない。
寂しさや切なさというものは、求めるものがあって初めて行き場を失う。
原因も求めるものも無い喪失感というのは、ただ風船のように放たれて目の届かない上空で消えるのを待つしかない。心に留めることも出来ないまま、哀愁は垂れ流しである。
ただなんとなく九月になると何かが終わる気がして、何かが終わったような気がして少し寂しくなる。それだけのことで、こうしてずっと年を、秋を重ねてきた。
日が落ちて、金にも朱にも紺にも染まる西を背に
闇に溶けて輪郭を失っていく長い影を見ている。
九月が終わっていく。