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12/20/2012

みっちゃんの話をしよう

いまだにみっちゃんのことが忘れられない。

話は小学校低学年時代まで戻る。
私は、小学4年生の夏休みが始まる前に転校してしまったので、これは転校する前の小学校でのお話である。

転校する前の小学校は小さな町の小さな小学校で学年全体でも40人いるかどうかだった。男女は多分半々くらい、1クラスは20人構成だったと思う。クラス替えは偶数学年のみ行われるから、1,2年のときは同じクラスのまま持ち上がりだった。もっとも4年生になるときには2クラス作るだけの人数がいなくなってしまって、35人くらいの1学級に纏まってしまったのだが。

その1,2年のときのクラスメイトにみっちゃんという女の子がいた。
雰囲気は『謎の彼女X』の謎の彼女(卜部 美琴)みたいな子だ。少し目が隠れるような前髪、肩につかないくらいのショートカット、それから猫みたいに細い目が印象的な子だった。
いつも本を読んでいるような大人しい子で、休み時間も活発に外に出て遊ぶような子ではなかった。私も本が好きだったから、図書館でよく会うことが多かったように思う。今まで十回くらい読み直した大好きなミヒャル・エンデの本、『モモ』もみっちゃんが読んでいたから、面白いのかな、と思って読み始めた。だから私にとってみっちゃんが特別であるのは、そういう切欠の持ち主だからという点もある。

話を進めよう。
私は休み時間はどちらかというと皆とワイワイやって外を走り回ったりして過ごす方だったので、みっちゃんとは特別親しかった(女の子の言う”同じグループ”というやつ)ではなかった。
しかし、私にとってみっちゃんは特別な女の子だった。

ある日、なんでかみっちゃんの家に遊びにいくことがあった。遊びに、といっても学校の帰りにたまたま何か用事があって立ち寄ったという方が近い。とにかく私はみっちゃんの家に行った。
みっちゃんの家は、和風の、畳が良く似合うお家だったと思う。おじゃまします、といって(この辺よく躾られている子だったのだ)あがって、居間に座って待っていると、みっちゃんは、「栄養をつけなきゃ」と言って生卵を飲みはじめたのだ。
これが衝撃的だった。
当時の私には「生卵を飲む」という文化がなかった。というか知識もなかった。そこで、卵を飲む、というのは何だかとても凄いことで、いうなればアロエの葉をすりおろして飲む、生姜を搾って飲む、といった高尚な知識のもとになされる医学的な行為、あるいは修行僧なんかが自分を高めるためにすることのように思えたのだ。生卵を飲む習慣のあるみっちゃん、がとても高いところにいる女の子のような気がした。私が驚いて「生卵、のむの」と聞くと、みっちゃんは「フフフ」と笑ってこくん、と生卵を飲み込んでいた。
それから、みっちゃんとおしゃべりをしていて、当時はやっていたポケモン(ゲームボーイでやるやつだ)を見せてくれるという話になった。当時、私はポケモン自体はカードやアニメで知っていたが、ゲームボーイは持っていなかった。ゲーム機に電源をいれて、ポケモンを戦わせるシーンを見せてくれた。
するとオトヒメ、という名前のポケモンが出てくる。
「これトサキント(金魚みたいなポケモンだ)じゃないの?」
と聞くと、みっちゃんは「うん、オトヒメって名前にしてるの」と答えた。
これも衝撃だった。
ポケモンの名前を変えてる!!公式で名前がちゃんとあるのに!しかもオトヒメなんて素敵な名前をつけてる!!
ワーみっちゃんめっちゃポケモン飼い慣らしてる!!!
そんなことを自然にやってしまうみっちゃんがとても大人に見えた。もうくらくらである。
生卵を飲む習慣があって、ポケモンの名前をさらりと自分のセンスで変えてしまうみっちゃん。
幼心にみっちゃんにある揺るがない何かに、私はすごく憧れていた。

みっちゃんのもつ揺るがない何か、は小学3年生になっても揺らぐことはなかった。
その頃には、みっちゃんがちょっと変わっている、というのはクラスでも周知の事実で、あるとき授業が始まる前に先生が「なにそれ、どうしたの」と頓狂な声を上げたことがあった。なんとみっちゃんは自分の机いっぱいに液体のりで水溜りを作っていたのだ。「どうなるのかな、と思って」とこともなげに答えたみっちゃんは、その液体のりの水溜りを横から見たり、机を傾けたりして楽しんでいたが、先生に「授業ができないでしょう」と言われ、渋々のりの水溜りを片付けていた。
クラスの端々では「みっちゃん何してるのー」「変なのー」という声がしていたが、私はそのみっちゃんの、「どうなるのかな、と思って」という言葉にくらくらしていた。
どうなるのかな、と思っただけでのりを机にべろべろべろーっと垂らしたわけである。
揺るがない。揺るがないというか、自由に飛びすぎである。
その自由すぎる発想と行動力に、みっちゃんはなんて素敵なんだろう、と思っていた。
(今でも時々その節はあるが、私は、発想が自分の想像のはるか外側にある人に、どきどきしてしまうところがあるのだ。)

残念ながらみっちゃんとはそれほど親しかったわけでもなく、当時は携帯なんてものもなかったから、小学4年生時の転校以来会ってもいないし連絡先も知らない。
それどころかみっちゃんの本名も思い出せない。

それでも未だに、小中高と過ごしてきて、みっちゃんほど素敵な女の子はいなかったと思う。


4/16/2012

孤独が脊椎に宿ることを君は知らない



きっとなんだか捉えたい感覚というのがあって、そういうものを探すために色々音楽を聴いてみて悲しいとか寂しいとか恋しいとかそういう感覚を探してみるけど、大体どれもしっくりこなくてモゾモゾした居心地の悪さが残る。
相手だってわかってるけど別れ際にまた会おうって言い忘れたな、みたいな心残り。

一人でとぼとぼ帰り道を歩いていたり電車に乗っていたりすると「そうだそうだ」みたいな感じで言葉がどんどん溢れてくるのに、それをフィクションだって良いから残そうと思って白紙を目の前にした瞬間に、何も思い浮かばなくなる。マイナスの感情とか悩みなら忘れた儘で良いじゃん、とも思うけれど、自分としてはこういう頭の中で小説の一節のようにふと浮かぶ感覚をアイデンティティの一つだと思っていたいのだ。
もしも私が芸術家なら作風になっていただろうなという感覚。

「A型なの?私B型だから輸血できないね」という何気ない会話に感じる理不尽な罪悪感というか寂しさだとか、目の前の連れが喫茶店でアイスコーヒーにミルクを入れてすぐにかき混ぜてしまう所を見たときの(ああ、違う。)というパズルピースが嵌らない感じだとか(私はアイスコーヒーの中をミルクがしゅるしゅる踊るように溶けていく様を見ているのが好きなのだ)、誰かと話しながらだんだんその人の話が自分からどんどん遠ざかっていく虚ろさだとか、
そういうものを感じた瞬間。
その瞬間にだいたい、ふわっと思考が飛んで何か掴んでいる。

そうだな、いつも寝ているベッドのシーツを整えようとシーツの端を掴んでふわっとさせたときの、あのシーツが空中で波打ち、その下を空気が流れて、やがてシーツが重力にしたがって落ちてきて、ベッドの上に少し乱れて着地する、そんな感じだ。
そんな感じの隙間だとかズレが心の中で起こる。
ふわっと、空気みたいなのがするっと抜けて、ズレる。

なんだろうなあ。
これが一人の人間に一つの命しか宿らない孤独なのかしら。

1/19/2012

高架エンドルフィン


そういえば23度目の冬なのに、何度か冬を失くしている気がする。

春と夏と秋と冬の数は一定のはずなのに、記憶の中で越えてきた季節の数が合わない。
思えば夏が多いような気もする。

越えてきた季節について思い出すとき、視覚的な記憶よりも「怠さ」のような感覚の方を先に思い出す。茹だるような暑い夏にベッドの上で流れる雲を見ながらぼうっとしてたこととか、秋の煙たいような晴れた日にぼんやり散歩した時の気候とか、真っ白な雪の中を憂鬱さを携えながら歩いていたこととか。ぱっと思いつく季節の記憶はいつも一人でどこか遠く(未来とか宇宙とか)を考えていたときで、おそらくそういう時は中身が空っぽだから季節の匂いや温度を覚えやすいのだろう。
多分片思いしてるときの季節なんて忘れてるのじゃないのかしらん。

記憶といえば、夢の中に突然昼間見た何気ない看板が出てきたり、食べ物が出てくることがあって、目が覚めたときに思い出して「あの時の記憶から引っ張り出してたのか…」と納得するときがある。覚えたいと思うことは中々覚えられないくせに、記憶というレコーダーは止まることを知らず予想外のものを記憶していたりする。
他人の夢を知らないが、自分は物凄く鮮やかな夢を見る。
夢の中で美味しいものを食べた幸福感や、空を飛ぶ浮遊感、美しいものを見たときの胸の震えるような感覚を目が覚めてもずっと覚えている。映像は色鮮やかで、朝焼けと夜明けが同時に始まる空を俯瞰で見たり、宇宙の中で火花のような星々を見たりと物凄く情報量も多い。
ストーリィもよく覚えている。自分ではない人間になったりもする。

夢の中が楽しすぎておそらくあちらにも自分の人生、というか魂の半分があるのだろうと思う。
現世では半分くらい魂が足りないので、そこをハードディスク化にしているのだ。
だから(無駄に)記憶している風景や感覚が多く、夢が鮮やかになるのだろう。
そういうことにしたい。

誰かと夢が共有できたらいいのに、と思うが
記憶だの夢だの感情だのというのは、不完全なくらいが丁度いいので(整合性のある夢というのもそれはそれで気持ち悪い)おそらく本人にもよくわからなくて、他人にとっては未知なくらいが距離感として丁度良いのではないかと思う。
自分だとか、他人だとかと付き合っていくための。

まあ恐らく、記憶だとか人生なんてものは、何回か季節を失っているくらいで丁度良いのだろう。













9/26/2011

きっと走馬灯は秋に走る自転車のように

目を閉じると薄荷の様な寂しさがすっと胸を流れる。

残暑というにはあまりにも記憶に薄い真夏が過ぎて、九月もそろそろ終わる。
先日の台風が僅かに残っていた夏を攫い、代わりに町を覆う煙たいような、甘みを含んだ夕方の風の香りが秋の訪れを感じさせる。

九月は終わりの季節だと、思う。

一年の区切りというものは人によって様々で、一月で区切る人もいれば四月を初めとする人もいる。自分も十二月には一年の終わりを、三月には別れの期を感じるけれど、それらは次なる始まりがすぐに待ち構えている。
私にとって九月はただただ終わるだけの季節だ。

新学期が始まり、夏休みという非日常がどんどん消えていくあの落ち着かない感じ
高校の頃は文化祭が九月だったから、その所為もあるのだろう
だいたいのイベントは九月で終わり、そこから先は平凡で日常的な生活が続く
大学の頃は単純に夏休みの終わりだった。
そういうものが混ざり混ざって、九月の記憶を作っているのだろう。

九月には、糸が解けるようにするすると様々なものが終わっていく。
そして十二月という一年の終わりを先に見る。
「今年も、もう終わっていくね」
と呟いて、早くなった夕暮れと肌寒くなった空気の中でデジャヴュに惑いながら、何か忘れてきたような、何か失くしてきたような、喪失感に襲われる。
何かを失くした九月があったのかもしれない。

感傷的というにはあまりにも漠然としていて、帰る場所が見当たらない。
寂しさや切なさというものは、求めるものがあって初めて行き場を失う。
原因も求めるものも無い喪失感というのは、ただ風船のように放たれて目の届かない上空で消えるのを待つしかない。心に留めることも出来ないまま、哀愁は垂れ流しである。

ただなんとなく九月になると何かが終わる気がして、何かが終わったような気がして少し寂しくなる。それだけのことで、こうしてずっと年を、秋を重ねてきた。

日が落ちて、金にも朱にも紺にも染まる西を背に
闇に溶けて輪郭を失っていく長い影を見ている。

九月が終わっていく。


1/01/2011

今年が始まります

あけましておめでとうございます

どうなるのでしょう今年は。
兎に角、大事なものはぎゅっとして、新しいものを作ったりしていきたいですね。
絵でもアニメでも人間関係でも。

今年もよろしくお願いします。
あなたにとって歓びある一年になりますよう

平成23年.元旦

12/30/2010

今年ももう終わり。

雪が積もって、花が降って、光が溢れて、色が満ちて、また雪が積もっていきます。
そうして1年が過ぎてゆきました。
香りや温度が移り変わるたびに増えていった記憶が、重みを持って存在感を色濃くしていく。

今年は本当に色々な事があった年でした。
内面的にも少し整理できたし、外面的にも進歩はあったように思います。
人との関わりってものを本当に嬉しく感じる一年でした。
やりたかったこと、自分一人じゃきっとやらなかったこと。
そういうものがあって、色んな人のお陰で沢山のことが出来た。
Twitterでも何だか会ったこともないのに、同じ大学の人達でやんややんや言ったりして
雪が降るとそれだけで皆同じこと言ってて、チャットとは違う面白さがあってすごく楽しい。

思いつきを垂れ流すって意味では自分に最適のツールなのでしょう。

なんでもないような一日が
とても輝いて思える時間があって
きっと間違えたり、躓いたりすることの方が多くて
多分その中で得たものが今の自分を創っているのだろうなと、感じている。

空の綺麗さだとか、空気の濁りだとか、緑の匂いだとか
そういうものを共有できる人がいて
ああ私は今とても幸せである。
偶然のような切欠で知り合った人達ばかりだけど
大体長い付き合いになっていて、運命というやつは真面白いものよのぅ、などと嘯いている。

今年もこうして1年が過ぎてゆきました。
これから春になる。
何もかもが上手くいくとは限らなくて
それでもどうにかなってほしいと願っている。

学生生活の締めくくりにはとても楽しい一年でした。
多分、学生らしい楽しさがあったと思います。

今年一年ありがとうございました。
今年の最後はこの曲で締めくくりたいと思います。
<マメシバ/坂本真綾>

12/21/2010

声涙は積み重なって

何が正しかったのか
なんて問いかけはきっと、思い込みの一言で全部間違いだったって答えになってしまう。

ソラニンで
種田が人生の行方を決めてから、原付に乗って走りながら
幸せだ、これでいいんだと呟き、
鍵に付けられたキーホルダーに
「本当に?」
って聞かれて、薄く笑いながら自分を納得させるシーンがある。
本当に? って声を耳の奥で響かせて
右手を強く、手前に回す。
シーンがある。

夢って何だったんだろうか。実現可能性って何だろうか。
失恋しても、絵を完成させても、今日が一番楽しくても、生活は続く。
  あの頃のぼくにはもう、戻れないよ。
自分の人生で、思い返せば分岐点だった場所がいくつかある。
その瞬間に戻って、違う道を歩けばきっと違う未来があったろうと思う。
それでも、この道を選んで(しまって)それで得た、微かなものを失ってまでやり直したいとは思わない。多分最終的に間違った結果も、正しいと思っていたその途中過程は自分にとって大切なのだと思ってる。恋愛も進路も、生き方全て。
今持ってるものを失うのが怖いだけだけど。
  例えばゆるい幸せが、だらっと続いたとする。
今日も世累は積み重なってまとわり憑いている。

それでいいの、って耳の奥で響いてて
いいとか悪いとかじゃなくて
薄く笑って、いいんだよ、としか答えられなくて
  小走りで路地裏走って思い出してみる
クレヨンしんちゃんの大人帝国って映画で、悪役が、敵対するしんちゃん一家の足掻きを見て、ふと「最近全力で走ってないなぁ」って愛おしそうに、哀愁をこめて呟くシーンがある。
思い出してみるって、そういう事なのかな。

4年間で一番楽しかった、と断言できる4時間があって
そこには、何も無くて、時間と空気だけがあって
ただ喋って話して、歩いていただけで、ただそれだけで
きっとそういうものが毎日続いていた時期もあった。

なんて、今更どこで何を言おうとしているんだろう。


12/08/2010

晴れ渡る、君と

神戸に行ってきました。ルミナリエ見てきました。
久しぶりに遠出した。枕が変わると上手く眠れないくらいにawayが嫌いな子なので、今回も「行こうよ!」という有り難いお誘いにホイホイついていく感じでした。あはは
外出が嫌いな訳じゃないんですが、自分の知らない場所・人というものに物凄く抵抗があるので、これから住むとか仲良くなるって前提がないとガチガチです。あまり踏み出しません。

日帰りだったので半日観光だったわけですが、観光名所はだいたい回って、適度に旨いもん食べて、ぐだぐだしつつとても楽しかったです。
フレキシブル&ポジティブな旅でした。
大体適当に決めて前向きに考えるって非常に楽。気の置けない仲の典型例というか理想型なのかもしれません。

一つ一つを丁寧に解説してもアレなので、あんまり神戸レポートはしませんが。
ルミナリエ綺麗でしたよ。

11/30/2010

夜が近付いても歩き続けていた

落ち葉の色が赤から黄色になって、吐く息の白さに驚かなくなった。

空には星が輝いている。夏よりも多く見える気がする。知っている星も夏より多い。

時が流れるのは早い。
そしてそれよりも、自分の知らないところで流れている時間の方がずっとずっと速い。
久々に友人や後輩と話すと、自分の知らないところで沢山の事が起こっていたり、多くのものがなくなっていたり始まっていたりする。自分から距離をとればとるほど、その速度は上がる。
おそらく、自分の時間軸とは別に捉えている所為だろう。
全く知らない人の人生は一瞬に思える。
もしかしたら、地球を外から見たとき、46億年なんていうのは一瞬なのかもしれない。


そういえば小さい頃、漫画や作品にのめりこんで自分がそこに居る空想をすることがあった。
登場人物達は物語の外で私と一緒に遊んでいたし、世界の端に作者もしらない私が作った場所があった。
大人になって、作品はただの作品なのだと、登場人物はデータなのだと気付いてしまった。今では、私はいつも現実に居座って彼らを眺めている。
あの頃の自分にとって物語は作品ではなく「違う世界」だったのだろう


この間、教授と勉強というものについて少し話した。
「私も先週61歳になりましたけど、やっと刑法がちょっと分かってきたかな、と思いました」
と先生は言った。自分の専門でさえ、教授が61になって「ちょっと分かった」というほどなのだ。
学問は奥が深い。


講義で”○○学”というものを教えるのは難しいらしい。
研究者は○○学の更にその先を細分化させた一分野について研究しているものだから、その学問について幅広く講義しろ、と言われても中々その面白さを伝えるのは難しいのだそうだ。
「面白く、分かり易く、それでいて深く、という講義を目指しているんですけどね」
と先生は困ったように笑っていた。


たまに触れる専門外の知識がとても面白く感じることがある。
いつの間にか自分の専門についての勉強は嫌々になっている事がある。
結局それは、新鮮味の違いなのだろう。
自分の専門だって、疑問が増えて調べだすと数時間あっという間だったりする。きっと表層知識では新鮮味が感じられないくらいには知識量は増えてしまったのだ。しかしその奥に進むだけの興味は、知識量の増幅でしか得られないという矛盾が、勉強の面白さが分かりにくい原因だろう。


図書館を出て歩き出すと、冷えた空気にすっと脳がクリアになる。
ポケットに手を入れて一人、暗くなった大学を歩く。どこか遠くで管楽器の音がする。
あとどれくらいこの場所に立っていられるのだろう。

11/12/2010

雑記

暗澹たる雲の上には三日月の宿る夜空が広がっていました。

ぎゅいぎゅいーってな感じでベジェ曲線ではじめて線画描いてみましたの。
やっぱり手書きよりもずっと綺麗ですね(当たり前か

妹と久々に電話で話して意気投合してました。
色々と異常だよね、うちは。って喋ってました。姉妹っていうのも悪くないですね。
普通は、ってのが常套句なんですけど一番オカシイのは自分だったりするイイ例。
姉として出来ることがあればしてやりたいです、
とか思えるくらいには、自分も余裕が出来てるって信じたいの。

将来の事とか言われても本当はあんまり上手くいってないし
刹那的に生きてきたから実は来年も再来年も自分が居るイメージが湧きません。
というかそもそも問題を解決しないことにはゴールは見えないわけでzzz

うん、だからこそかな。
1ヶ月後の予定とか決めるのが苦手ですの。あふあふ×××ってなります。
来月の何日、3ヶ月後のこの日こうしよう?って言われてもそれまで私生きてるのかな?って
2週間後の予定が限界です。それ以上は現実味がないです。
自殺とか、そういう意味じゃぁないんだけど。難しいですね。
  難しくしているのは自分だよ(とか犀川先生は仰るのです

気付くのに時間の掛かる事が沢山ある。
そういうのは大抵、問題の難しさより、自分の内面の余裕によって左右されている。



ってこれは過去の自分の言葉の引用ですけど。(9/9青春の欠落)
ののの。そゆことです。(どゆこと?

そんでもって面倒に思えてきたコミュニティとか。
それって結局個人×nが面倒になったって事じゃなくって?とかとか
否定はしないけど。
嫌いとか悪いとか憎いとか、そういうのをあまり口にしなければ穏やかな人間関係は築けます。
温厚さって、そうやって構築されているものではありませんこと?
ラジカルな意見が敵を作るのはドコも一緒ですね。


紅葉が終わっていきます。
冬がくるのですね。来週から暖房が入ります。
ぽかぽか、したいの。

11/09/2010

Now Reading……

【最近買ったもの】
喜嶋先生の静かな世界/森博嗣
目薬αで殺菌します/森博嗣
理由/宮部みゆき
人質カノン/宮部みゆき
しをんのしおり/三浦しおん
推定無罪(上・下)/スコット・トュロー
子どもたちは夜と遊ぶ(上・下)/辻村深月
宮沢賢治詩集

本ばかり増えていく。
自室が図書館化していく。うむうむ。
本好きとしては「何か本あるかなぁって…来てみたー」なんて言われたら、うきうきしながら3冊くらい貸してしまうでないの。
そして紅茶を飲みながら長々と本の話が出来るのは至上の幸福である……。

11/06/2010

イきるものの叫び

夜。
11時くらいに街のスクランブル交差点の端で、パフォーマンスを見た。

ユキンコ アキラ

この人の、リズムパフォーマンスというやつ。
肩からポータブルDJボックスをぶら下げて、流れるリズムに乗って踊ったり走ったりしながら、キャンパスに絵を描いていく。
Go my way!!!
叫びながらスプレーやらを使って描いてく。

呑み会帰りの若いお兄さん達が盛り上げてて
Go my way!!!
って踊りながらのソウルフルシャウト。
お兄さん達もシャウト。

凄く良かった。
上手く言えないのがもどかしい。

芸術は人の心に響く。
お気持ちBOX、と描かれた缶の中に200円落として
「ありがとう」って言われて、手を握った。

細くて、男の子にはもうない、年を重ねた皺。
温かくて、壊れ物を扱うように握手して

ああ、人間が作ってるんだ

と感じた。
好きな人と手を繋ぐときでもない。女の子の手を握るときでもない。
触れ合う感覚。
こんな事でしか人間味を感じられないというのは、少し情けなくて虚しくて愚かな話だけれど、こうやってスプレーに汚れた温かい手を握って、そうやってやっと、魂の叫びみたいなのに触れられるのかもしれない。触れていると気付くのかもしれない。
空気を震わす音も、濃い匂いを放つ油絵も。
何よりも僕らは温度によって人間を知る。生きている事を知る。

心震えた、23時。

11/05/2010

野狐禅

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさが欲しかった。

吐き出す言葉の重さを知っている人は、とても言葉に気を使う。
それは時に残酷な予防線を張っていたりする。ただ、そういう自分に対する優しさは必須だ。

絶対だとか永遠だとか、そんな言葉は使えなくなった。一方で、どうでも良い嘘を簡単につくようになったのは、何かに対する緩衝材なのかもしれない。適当さだとか、斜に構えてみたりだとかっていうのは自分自身、みたいなものを直視しない方が良いことを知っているからだろう。
全力で生きていると、落ちるときも衝突するときも きっとそのスピードだからね。
80%くらいを気取っておいた方が、それくらいが全力の振りをしておいた方が後々楽だって事を段々知っていくんだろう。頑張れ、みたいな暴力に対しての切り札かもしれない。

思いやりと頭の回転の速さっていうのは人間社会の中にいる中で最上の防御になる。
思いついてから、それを言うべきか言わざるべきか、をきちんと判断して行動できるという賢さ。
素直に尊敬した瞬間だった。

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさは欲しかっただろうか。

単純だったものはいずれ知識と共に複雑さと難解さを孕んでいく。
全ての事象は樹木のようになっていて、幾千幾億の枝先と根が広がっているのだ。
成長すればするほど広がってそしてやがて端から朽ちていくのだろう。
「やっぱり家が一番」みたいな顔して、死ぬ間際に幼かった頃のシンプルな思いを口にしたりするのかもしれない。失ってみて初めて気付く大切なもの、なんてのは遣り尽くされたテーマだけども、やっぱり始めから持っているものの価値を知るためには、そう簡単にはいかないのだろう。最初から持っていないものの価値だって、そう簡単にはいかない。

pricelessというのは日本語の慣用句、「値無き宝」と訳される。
tintinnabulationが、もゆらと一言で表わされるように
この世にある言葉はあるべくして生まれているんだろう。必要とされて生まれる感覚なのだろう。誰しもが得る感覚なのかもしれない。欲しがる言葉なのかもしれない。

Noting so sure as death
死ぬるばかりは真

「否定も徹底すれば肯定になる」
と言ったのは血盟団事件の主犯、井上日召ですが
嘘を真に塗り替えることすら可能なこの世で、死ぬことだけは唯一絶対の真なのだというのは昔から言われている様です。

嘘と難解さと煩雑さに絡まりながら
そうやって段々ゆっくりと、真に近付いていく。

10/27/2010

もゆらティンティナビュレーション

囈 語


憤懣はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく騰って
河谷のそらに横はる
しかも
水素よりも軽いので
ひかってはてなく青く
雨に生れることのできないのは
何といふいらだゝしさだ



詩の朗読会とかしたい、とふと思った。

囈語(げいご)、というのはうわ言、寝言、という意味です。
初見の漢字や熟語でも、見た瞬間にぱっと読めるようになってきました。意味もだいたい分かります。勿論、文脈もありますし、どこかで見たのを忘れていて知識だけが無意識に沈んでいるだけかもしれませんが、言語の真髄を見たような気がしました。
英語も、もしかしたらこんな感じなのかもしれません。

さて、言語、賢治といえばエスペラント語ですが、
この間、少し調べていたら本当に美しい言語なのだなと思いました。
______________
Ami は「愛する」という意味です。接頭辞や接尾辞をいくつか覚えれば、簡単に新しい単語をつくることができます。
Amo(名詞は -oで終わる。)
Amego情熱-eg は「大・強」の意。)
Amas愛している-as は「現」の意、すなわち現在形。)
Ekamas恋に落ちるek- は「始」の意、または瞬間の動作。)
Ametas少し愛している、好き-et は「小・弱」の意。)
Amegasとても愛している、熱愛する-eg は「大・強」の意。)
Malamas憎むmal- は「反」の意。)
Malametas嫌いmal- は「反」、 -et は「小・弱」の意。)
Mi amas vin.私はあなたを愛している。


1つの意味を持った言葉がツリー式に変化して言葉を作っていく。
エスペラント語を学ぶと他言語を学び易くなる、というのはこれが言葉が作られていく根本だからでしょうか。特に「愛しているの始まり」で「恋に落ちる」という言葉の作られ方に感動しました。
言葉フリークなのかもしれません(今更)

最近、暇な時は短歌を考えるようになりました。
バスの中で指折り空想している人がいたら私です。

タイトルの言葉は朝一で思いついて、自分で感動しました。
まほらミスティフィケーション、に合わせて「ひらがな+英語カタカナ」を考えていたら思いついた言葉ですが、ここ3ヶ月で一番の閃きだったと思います。(少しうきうき)

未来は真っ黒ですけど、2分先だけが少し明るくて楽しいので短めに生きていきたいです。

10/25/2010

まほらミスティフィケーション

囈 語

竊盜金魚
強盜喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職天鵞絨(びらうど)
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。

『聖三稜玻璃』山村暮鳥/青空文庫より

10年間使ってきた腕時計がそろそろ寿命なのか本格的に狂いだしている。
去年から寒さには劇的に弱くなっていて、冬の夜間は止まる事が多かった。
今、すでに昼間でさえ、動かなくなってきている。
2秒毎に2メモリ分動いて、なんとか正確な時を刻もうとする献身さに涙が出そうになった。ありがとう、もう頑張らなくても良いよ。朝からずっと8時19分を指す腕時計をしている。最早微かに揺れるだけの秒針を見ながら、自分の時間でさえも止まったように思う。

捨てるという行為が苦手だった。
最後に行った東京デズニーランドのパンフレットや、海外で買ったペットボトルや、誕生日プレゼントの包装紙、年賀状、ちぎれたネックレス、捨てられずにどんどん溜まる。
利用価値があるかどうかではない。ただ、そこにある思い出だとか人の気持ちみたいなものが、消してしまってはいけない気がして捨てられないのだ。映画の半券はもう、印字は消えてただの白い紙になっている。増えるばかりで引き出しはもうぐちゃぐちゃだし、押入れもごちゃごちゃになる。だから、半年に一度くらい、思い切ってそういうものを捨てるようにはしてきた。そうやって捨てるたびに、自分の所有物は2/3くらいになった。
年を重ねていくと、要らないものに気付くようになる。手に入れないという選択肢も考えるようになる。昔よりは遥かに捨てることに抵抗がなくなってきた。
今、どれほどの物を持っているだろう。

動かない腕時計には自分の体温が伝わって、仄かな温もりを持っている。
こういう瞬間、今まで全く気にしたことなんてなかったのに「大きな古時計」を思い出して、嗚呼あの歌を作ったひともこんな気持ちだったのだろうか、と思う。
動かない時計を見つめて時間を忘れたりしたのだろうか。
自分の時間が止まりそうな感覚を味わったのだろうか。

時々、悲しむために理由があるのか、事象があって悲しんでいるのか分からなくなる。
好きだから恋人なのか、恋人だから好きなのか
楽しいから盛り上がっているのか、盛り上がっているから楽しいのか
感情が先にあるのか言葉が先にあるのか分からなくなる。不安になる。
前も似た様なことを言っていた気がします。

独りじゃないから寂しくないことも無いし
楽しいから切ないと思わないことも無い。
きっと、寂しさだとか切なさが消えている瞬間っていうのは結局の所、「そうでない」という否定でしかないという事なんでしょう。

という感じの事を友人が言いたがって混乱していたような気がします。
違うかも。でもこれは私の言葉。

暫く降り続く雨はどこの地を固めようとしているのでしょう。

10/23/2010

どれほどの速さで生きれば、君にまた会えるのか。



何かに縋っていなければ生きていくことが出来ないような、生き方がある。
例えばもう忘れられている約束を一人、ずっと守り続けているような。

「こんなところにくるはずもないのに」
「こんなところにあるはずもないのに」
「こんなところにいるはずもないのに」
の時にフラッシュバックのように映像が次々と切り替わるのが切ない。

日常で、ふとした時に突然過去に引き戻される瞬間がある。
生きていく中で、記憶の外部メモリはそこここにある。
散る桜の花弁であったり、霞む下弦の月であったり、雪の冷たさであったり、思い出と呼べるほどの立派な記憶でもないのに、現在触れている桜や月や冷たさが過去のものと時間を越えてリンクする。
そういうトラップのようなトリップに
戸惑いつつも、仄かな慈しみを見出していたりする。過去は思い出すたびに悲しくなる。
写真を撮る意味はきっと、そのトリップを意図的に安易にすることにあるのだろう。

大事な記憶ほど、思い出すために忘れようとするのかもしれない。

『秒速5センチメートル』はやっぱり桜花抄が一番好きですが、コスモナウトと秒速5センチメートルがあってこそ、あの最初の切なさは際立つと思います。
冬の夜に温かなコーヒーを入れて、暫くしてからふとコップに触れたとき、さっきまでの温もりが嘘のように陶器が冷えている事があって、中に残った少しばかりのコーヒーでさえすっかり冷えてしまっている。捨ててしまえば良いのに、勿体無くて残りを飲んだらやっぱり冷たくて、「あぁ」と思う。
なんか、そんな感じの映画です。

10/19/2010

さよならまでの距離

難しいよね。
としか言えませんが。

無意識に大切なものを減らそうとしているって気付いてる時点で無意識じゃない。

ほんとは、ほんとはしたいことなんて一つもない。

なんて。

10/18/2010

散歩日記

ダムのみずをながしかわのみずがふえることがあるからきをつけよ

ダムのみずをながしかわのみずがふえることがあるからきをつけよ

面白い。
コアなファンにしか受けない、芸術色の強すぎるインディーズバンドの歌みたいな感じ。
多分、この面白さが分かる人は少ない。



う、うわぁ古墳だ!
と思って近付いたら



これ、トイレなんだよ。
トイレ、公衆トイレなんだよ。(強調)

古墳みたいなの。
でもトイレなの。
墓守人がいたと思ったら、トイレの利用者でした。凄いよね。凄いよね。
古墳みたいなトイレ。

これ見つけたとき、夜1時くらいでさ。
友達と大爆笑しちゃったよ。
正確にいうと、笑っていたのは私だけで、友達はトイレに爆笑してる私を笑っていたんだとおもう。

でも外からみたらトイレに爆笑してる2人だと思うからいいや。
プラネタリウムを観に行ったのに休館日だった。

仕方なく近くのベンチで読書。

チェックのスカートと本って似合う気がした。

目の前の川原では芝生の上を色んな家族が転げ回ってて幸せそうでした。
神様になった気分。
帰り際。
いいよね。

いいよね、ああいう雰囲気。

恋人同士かな。

恋人同士じゃない方がロマンチックだよね。




最近はずっとこうやって沢山のものを見直している。
歩くときも音楽プレーヤを聞かずに街の音を聞いてみたり。
ベンチにすわってぼーっと1時間くらい子供を見ていたり。
家族で遊びに来ているとね、大体皆立派なカメラを持ってるんだな。一眼レフっていうの、ごついやつ。それで、小さい子が走り回っているのを大人が嬉しそうにシャッター切ってるの。私も小さい頃の写真って沢山あって、小学校低学年くらいまでのアルバムって15冊くらいになっていたと思う。こうやって、沢山集まっていったんだろうなぁと考えるとじんわりするね。

本当、老若男女たくさんの人が歩いてる。
最近、お外で友達と喋ったり、だらだら一人で歩いたりする事が多くなって、それはもう前よりもずっとずっと沢山の事に気付く。知識は本の中にあるけど、哲学はお外にありますね。
なんだか余生を送ってるみたい。
ふふ。思い残すことがなくなってきたなぁ。

10/16/2010

夢見

が、あまりにも悪くて少し気分がDown

ここのところ、目も肩も腰も痛いの。

会いたいなぁって思ったときに限って
誰もいない、不思議。

夢だったよな、現実じゃないよなって確認。
あーあ。

10/12/2010

ノンフィクションというリアリティ

そこがこの世の果てだとしてもそれが悲観に値すべきかどうかはわかんないすよ。
”オレは↑をどこかでこの世の果ての物語だと思っていて
自分の生活環境にはまったく心当たらないフィクションとして
捉えていたのかもしれない。
全然違った。当たり前だ。この世の果てなんか身の回りに溢れかえっている。”
――ドラマ『モテキ』の監督、大根仁氏のブログより。

前に『隣の家の少女』を読んだときも思ったけれど、テレビの奥で騒がれる事件と自分を関係性のあることとして繋ぐのは少し困難だ。少しばかりの共通項から防衛意識が上がる程度のことで、やっぱりそれは自分と関係のないところで起こっている出来事と捉えてしまう。

誰かの言葉に、
障害者を排斥する人は障害者の友達がいないのでしょう
同性愛を否定する人は同性愛者の友達がいないのでしょう。
というのがあって

人は結局の所自分の見えている範囲の事しか”リアリティ”として受け取れないのだろう。
地球の反対側で起こっている飢餓問題も戦争も、小説の中の出来事と受け取り方はそう大差ないのではないかと思う。それは多分、批難されるべき事なんだろうけれど、批難できる立場にある人というのは中々居ないのではないかとも、思う。
虐待も同性愛も障碍も、きっと身近でその人の視点に立つという機会がないから、普段から何も考えず、突然表れた日常の破壊者に危機感を感じる。私だって揚々と人の事を言えるような立場ではない。

君子危うきに近寄らず、という言葉と
義を見てせざるは勇無きなり、という言葉が混在している。

そこから何か動け、というのはきっと自分の世界の外を認識するよりもずっと難しい。
ただ、自分の分からない何かもある。自分のアタリマエが当たり前でない世界もある。
そういう事を心の隅で認めておく余裕くらいはあってほしいし、自分の世界から切り離すのはきっと

いつか使う優しさを腐らせているような。
見えてる筈の目を曇らせるような。

自分と繋がらないものなんてこの世には無いよ。