12/21/2011

融雪の銀



あの角を曲がったら悲しみ始めようと思った。

ポケットに突っ込んだ手はじっとりと温く蒸れていて、時折びゅうと吹く北風が耳を凍らせる。
呼吸するたび僅かにマフラーに覆われた口元が温かくなる。
目線を上げて、遠く続く街路樹を眺めた。
もう殆ど見えなくなった。
今は幽かに眼球の霞みと紛う程度の銀がちらつく程度だ。

いつの頃からかは分からないが、私の見る世界にはいつも光や影とは無関係に銀色の小さな光が舞っていた。それが他人には見えないものであるということに何の違和感も、孤独感も感じなかったから、きっと後天的なものだったのだろうと思う。妖精というほど夢物語じみた意思疎通も、生物らしさもなく、ただ古びた白黒映画のフィルムに混じるノイズのように、自分の視界には銀色の光が混ざっていた。春の終わりにはまるで桜が煌いているかのように、澄んだ夜には星が増えたかのように銀色はそこにあった。季節に輝きを与える美しいと思ったし、この景色を誰かと共有できないことを少し惜しくも思った。そして私以外の人はこの景色よりも少しクリアな景色を見ているのかと哀愁に耽った。
あの頃、私の世界では常に銀の雪が降っていた。

足元から伝う冷気に侵される気がして歩みを速める。
夕刻に降った霙雨の跡がそこかしこに残っている。天気予報では今夜は雪だと言っていた。
きっと家に帰れば恋人が温かなシチューを作っていることだろう。
ただいま、といえば出来るだけ優しい声でおかえりと言ってくれるはずだ。野菜を煮込んだとろけるようなミルクの香りが部屋に漂っていて、ご飯の炊けるふつふつという音がして、きっと私はこれから、そういう幸福をずっと続けていくのだ。
そしてやがて銀の雪は見えなくなってしまうだろう。
気付いていた。
恋の幸福に身を落とすほどこの雪は溶けていくのだと。


愛してるという言葉を何度聞いただろう。
ベッドの中で、何気ない空気の中で、恥かしそうに、耳元で、目を見て、確かめ合うように、聞いてきた。
その度にきっと少しずつ私の世界に降る銀雪は溶かされていたに違いない。
心が満たされていく中で少しずつ私は自分自身も失われていく気がしていた。
満たされていくたびに重くなっていく身体。
そして減っていく銀の雪。
多分私は平凡に溺れることを恐れていた。
どこかに運命と呼べるような選択があるような気がしていた。


ずっとずっと、クローゼットの奥に繋がる亡国も、選ばれた存在になることも、私だけが持つ力も、突出した才能も、宇宙人が来ることも、科学戦争が起こることもなく、昨日予想した明日が続いていくことがどうしようもなく怖かったのだ。そうして想定内の日々を日常と呼び、誰かが生きたような人生を歩む平凡さが恐ろしくて仕方なかったのだ。
生命を賭けて切り開くだけの運命が無いことが、惨めに思えていた。
自分だけは殺されないと信じて幼い日々を過ごすように、私は自分だけは主人公となるような人生を歩むと信じていたのだ。
私の世界にだけ降り注ぐ銀の雪が、他人にとってどれほどの奇跡に見えたのかは知らない。
ただ私は、私の望む奇跡と運命に選ばれたかったのだ。



やがて予測された明日の連続はやがて平凡から安心へと変わっていった。

子供の頃に必死に手を伸ばしても届かなかった沢山の事柄が、いとも簡単に自分の手の中に入るようになっていった。知らなかった感覚と背負いたくも無い責任と消えてゆく逡巡が自分を変えていく気がしていた。そうして、ただ時間だけが努力を見捨てて自分の限界を壊していくことが少し虚しかった。それが成長ということなのだと、幼さを置いていくことなのだと分かっていながら止めることはできなかった。時の流れに身を削られて、そうして生命を賭けるほどの運命に出会わないまま、生命の重みだけが増していった。
此処に在らずだった自我は何処へも行けなくなって死に場所を決めた。
温かな場所。
愛してるの言葉でどんどん縛られていく、幸せな場所。

多分誰からも愛されていなければ、人間ではなく運命に愛されていれば私のこの世界はきっと、吹き荒ぶ美しい銀の冬を迎えていたのかもしれない。

なのに恋に落ちるたびにこんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
あの瞬間、あの瞬間はずっと、平凡さを望んでいたのた。
あの瞬間、あの瞬間にきっと、雪は融け始めていたのだ。
どんどん年を重ねることに、視界はクリアになってゆく。目に映る景色は鮮やかになっていく。
あんなにも眩しかった世界。

ようやく君にも春が来たね、
と笑っていた友人のあの言葉は私にとって長く続くはずだった美しい冬の最初の終わりを告げる言葉だった。

何度も春がきて、恋をして、夏がきて、恋をして、秋がきて、冬がきて
春がきて、春がきて、春がきて、
そして幾星霜の
春が。
永い恋が。

私はもう何処へも行けない。亡国にも科学戦争にも異星にも行かないのだ。
自分の手の中から失われていく異次元の輝きがもうこれ以上、どんなドラマチックも選べないことを証明していた。
顔をあげれば、幼い頃よりもずっとずっと遠くまで見える世界。
そうして映る色鮮やか過ぎる世界は悲しむには少し騒々しかった。

この角を曲がり、そうして次の交差点を渡ればもう家だ。
君に会えるだろう。

これから続く永い春の前の最後の冬が沁みる。