1/19/2012

高架エンドルフィン


そういえば23度目の冬なのに、何度か冬を失くしている気がする。

春と夏と秋と冬の数は一定のはずなのに、記憶の中で越えてきた季節の数が合わない。
思えば夏が多いような気もする。

越えてきた季節について思い出すとき、視覚的な記憶よりも「怠さ」のような感覚の方を先に思い出す。茹だるような暑い夏にベッドの上で流れる雲を見ながらぼうっとしてたこととか、秋の煙たいような晴れた日にぼんやり散歩した時の気候とか、真っ白な雪の中を憂鬱さを携えながら歩いていたこととか。ぱっと思いつく季節の記憶はいつも一人でどこか遠く(未来とか宇宙とか)を考えていたときで、おそらくそういう時は中身が空っぽだから季節の匂いや温度を覚えやすいのだろう。
多分片思いしてるときの季節なんて忘れてるのじゃないのかしらん。

記憶といえば、夢の中に突然昼間見た何気ない看板が出てきたり、食べ物が出てくることがあって、目が覚めたときに思い出して「あの時の記憶から引っ張り出してたのか…」と納得するときがある。覚えたいと思うことは中々覚えられないくせに、記憶というレコーダーは止まることを知らず予想外のものを記憶していたりする。
他人の夢を知らないが、自分は物凄く鮮やかな夢を見る。
夢の中で美味しいものを食べた幸福感や、空を飛ぶ浮遊感、美しいものを見たときの胸の震えるような感覚を目が覚めてもずっと覚えている。映像は色鮮やかで、朝焼けと夜明けが同時に始まる空を俯瞰で見たり、宇宙の中で火花のような星々を見たりと物凄く情報量も多い。
ストーリィもよく覚えている。自分ではない人間になったりもする。

夢の中が楽しすぎておそらくあちらにも自分の人生、というか魂の半分があるのだろうと思う。
現世では半分くらい魂が足りないので、そこをハードディスク化にしているのだ。
だから(無駄に)記憶している風景や感覚が多く、夢が鮮やかになるのだろう。
そういうことにしたい。

誰かと夢が共有できたらいいのに、と思うが
記憶だの夢だの感情だのというのは、不完全なくらいが丁度いいので(整合性のある夢というのもそれはそれで気持ち悪い)おそらく本人にもよくわからなくて、他人にとっては未知なくらいが距離感として丁度良いのではないかと思う。
自分だとか、他人だとかと付き合っていくための。

まあ恐らく、記憶だとか人生なんてものは、何回か季節を失っているくらいで丁度良いのだろう。