5/27/2010

香染の花




スクールオブロックでフジファブリック特集をしていたのを聞いてから、改めて聞きなおして今、フジファブリックにぞっこんである。

ピアノが混じってるバンド、いいね。前奏・後奏が素晴らしい。
全部聞いたわけじゃないけど、陽炎とサボテンレコードがすき。

んでもって今はsugar!!にベタ惚れ中。
気に入った音楽は3時間でも4時間でも1曲リピートさせて、飽きるまで聞く。
熱し易く冷め易いのかもしれない。

ただ、ヴォーカルの志村氏は去年の12月に亡くなったのだとか。
去年は本当、沢山の人が死んだ。
サリンジャーとかね。
灰谷健次郎氏が亡くなった時も思ったが、一方的な死というのは喪失感とはまた違った虚ろさがある。既に亡くなった人については何も思わないのに、何故一度も会った事のない人の死は、悲しくなるのだろうか。有体にいえば、夏目漱石の死は悲しくないのに、サリンジャーの死は悲しいとかそういう意味である。


時々、大衆の中でその一人々々の人生や今に至る背景を考えすぎて、挫折する事がある。

目の前の友人の知らない過去だとか、名前もしらないオジサンの家庭だとか、笑ってる幼児だとか、ふざけてる小学生だとか、彼らは彼らの人生を生きていて、その先には「立体的に」人間関係が広がって、時間軸がある。スクランブル交差点の真ん中で、100年前の同じ座標に思い馳せてみる。
きっと今も沢山の人が死んでる。
そしてそれよりも多くの人が生き続けている。

そういう目眩く感覚の中の一瞬の停止が、著名人の死なのかもしれない。

なんて帰結させてみたけど、実はよくわからない。
本当は、死んだなんて実感もないからね。
愛しい人が亡くなったらどう思うのだろうと考える。
自分が死んだらどうなるんだろう、と思う。

分からない、が答え。
これがアポステリオリな認識という意味です。

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