3/27/2012

揮発性メメントモリ


例えば美しい油絵も近づけば絵具の羅列でしかなくて、更に近づいてその本質を探ろうとすればそこにあるのはもはや絵ではなくただの顔料と乾性油でしかない。

本質を探るときに徐々に失われていくのは感性である、というお話。

毎日を生きていくに当って、悲しいことだとか嬉しいことだとか辛いことだとかというのは唐突にやってきて、しかも確実に影響を与えて去っていく。ちょっとした知らせが奪っていく心の平穏だとか、つもり積もった虚しさの所在だとか、そういうものに火曜日とか水曜日に気付いてしまったりして、不味いな、と思う。
24時間は止まってくれない。
とりあえず、と思い直す。とりあえずこの悲しみだとか辛さだとかというものは週末にまとめて感じよう、と考える。平日にそういったことに心を囚われていては多分まだまだ残っている明日明後日明々後日が過ごせない、そういうことが分かっているのだ。

悲しいことがあると、どうして悲しいんだろうと考える。
原因に思い当たる。
何故自分にとっては悲しいのか(果たして他の人にとっては悲しくない事柄なのだろうか)
そうやって粒さに本質を探っていって原因が見えたところで
よし、この問題は全部わかったぞ、後でゆっくり余韻に浸ろう。
みたいな気持ちでやり過ごす。
ヤヤコシイ感情は全部隅においやって、とりあえずやるべきことをやらねばならぬのだ。

そうやって果敢な研究者みたいな平日を過ごして、日曜日になってみるとまるでその時の悲しみが思い出せないのだ。悲しかっただとか辛かったという事実だけは覚えていて、カサブタになってしまった傷の痛みが思い出せないように、妙に気になる跡ばかりなぞる羽目になる。そうだ、確かここを怪我したときは痛かったということは思い出せるのにもう一度その痛みで泣くことはできない。
何故悲しかったのか、何が自分を辛く思わせる原因になっていたかはハッキリしていて、きちんと説明もできるのに、どれだけその過程をなぞっても気持ちは空っぽのままで、いやに晴れた日曜日だなあとかそういうことが次第に心を浸食し始めて、まあいっか、と悲しみだとか辛さは心の隅で蒸発していく。


面白かったことも楽しかったことも、その場で誰かに言わないと、どんどん色褪せていく。
2週間くらいしてから「ねえそういえば、」といった感じで話し始めた途端に物凄くその事柄が詰まらない、なんでもない日常に思えてきて誰より一番自分が興醒めしていることに気付く。

感情はナマモノだから、とかなんとか言った台詞がどこかにあったような気もするが、腐るというよりはどんどん蒸発していってしまうイメージである。
乾いた跡だけがのこって「そうここに水があったのさ」なんていったところでそれは事実の一つでしかなく、「だからどうした」という自問に潰されてしまう。


そうして日々を過ごしていくことは結構賢いことなんだろうな、とも思う。(悲しみだとか辛さってものに対しては)
コミュニケーションスキルだとかストレスコントロールだとかありきたりな処世術がどこかで評価されていて、要はどれだけ毎日を上手くかわしていくかということが長く生きるためには必要なのだろう。
ただ、なんとなくそうやって乾いて残って汚れた跡を割り切って過ごすというか
どうにも自分には上手く忘れられないというか、
「あああの時泣いておけば良かったんじゃないか」という涙の勿体無さというか
優等生も100点を誇らしげに自慢してもよかったんじゃないかな
みたいな
アタリマエだけどアタリマエじゃなかった頃もあったはずだよなあ
といった
成長に対する寂寞がいつまでたっても離れない。

でもこうやって幼い感覚だとか感情の制御の効かなさみたいなものを惜しむのは、きっとこういうものを失って自分よりもずっとずっと若くて幼い子供の気持ちが段々分からなくなるんじゃないかという不安があるからなのかもな、と思う。
どんどん分からなくなって、自分が子供だったこともいつか忘れてしまいそうな気がしていて少し こわい。






3/04/2012

永遠に続く魔法の粉砕と有限の現実の共有


昔のことを語るときに、特に悲しかったことだとか憤りを感じたことだとかを話すときに罪悪感のような躊躇いがある。

小さい頃小学校でこんな理不尽にあったとか、親がこんなことを言ってきて悲しかったとか、大抵の人はひとつくらいあるだろう。失恋でもいいし、友達との喧嘩でもいいけれど、多分自分はそんなに悪くなかったんじゃないかなと思うことで傷ついた体験。
ふとした会話の中で思い出して、そうそうそういえば、と語り始めて言葉が口から漏れ出した途端にそのストーリィは途端に小石の混ざったハンバーグとでもいうのか、ザラついた「言わなきゃ良かった」に変わる。
幼い頃の感情を改めて客観的にみて、本当に自分が被害者だったのかよく分からなくなるからかもしれない。今更何の関係もない時間軸の違う相手に話したところで何になるだろうという虚しさがあるからかもしれない。
語りながら自分は一体何を伝えたかったのか、自分でもこんなこと口にして思い出したくなかったなんて思いながらザラザラザラザラ不快感だけを舌に残して言葉は零れていく。
「わかるよ」という。「私もあった」と同情する。誰かと似たような体験をしていることは多々ある。限りなく共感出来ている、と思うこともある。そうやって理解してもらえることが嬉しくもある。
それでもただ本当に欲しかったのは、理不尽にあったときに自分の代わりに正論で戦ってくれる大人だとか、失恋したときにもう一度恋に落とすくらい傍にいてくれる存在だとか、信頼を実感できる友人だとかそういう「そのときのヒーロー」なのだ。結局は過去の話をしながら内容が「そういうものがほしかったんだよね」という叶わなかった夢の報告になってしまうことが気持ち悪いのだろうと思う。

意識して「悲劇のヒロイン」になろうとしているんじゃないかと思う恐ろしさがあって、うまく悲しみだとか憤りを語れない。勿論語る必要なんてないのだけれど、なぜだか、突然誰かに話してみたくなることがあって、それは会話の中で思い出された記憶の痛みみたいなものをただわかって欲しいというだけなのだろうと思う。
痛みをわかってほしいはずなのに傷口は見られたくない、みたいな意識の矛盾がきっと罪悪感のような躊躇いを生むのだ。

と、分かったところで何が解決したわけでもないけれど。
ただ誰しも 知られたくない記憶に付随するわかって欲しい感情、というのはあるだろう。




3/03/2012

桜混じりヒスノイズ

最近はずっと誕生日に貰った念願のゲーム機(PSP)で遊んでいる。
ペルソナ3というゲームをやっていて、これは学園生活を送る主人公がある日特別な力を手に入れて夜な夜な闇の敵と戦うようになる、というありがちな設定のRPG?だ。
敵と戦う以外、昼間は普通に学園生活を送っていて、クラスメイトと仲間と恋に落ちたり、知らない誰かとであったりと日々誰かとの繋がりがあって非常に面白い。

ゲームとは言え、クラスメイトが自分を信頼して段々と深い相談をしてくれたり、何度か一緒に帰っていくうちに自分のことを意識しだす異性の仲間など、もっともっとこの人を知りたい、という現実の人間関係の如くグイグイ引き込まれる。一緒に戦う仲間が自分を気遣う発言をしたり、「俺達はさ」と言って仲間であることを意識させてきたりして、ああコイツラ仲良くていいなあと思う。

こういう(学園生活疑似体験的な)ゲームをしているとやっぱり、あああ青春っていいなあ!としみじみ思う。
自分の学生生活が充実していなかったわけではないがやっぱり、こういう日々も送ってみたかった。


でもやっぱり学生生活がすべて終わってしまって思うのは、もう特別な力を持って戦うことも、誰も知らない世界と現実を行き来する可能性も無くなってしまったんだなあということ。
『とある魔術の禁書目録』だとか、『フルメタルパニック!』みたいな。
そういった物語はいつだって高校生くらいまでが「主人公」で、幼さをバネにしたような正義感だとか強さだとかを持っていて、それでいて思春期特有の脆さがあって、一人では戦えない弱さがあって、仲間となら何でも倒せる無敵さがある。(少年漫画の王道だ)
あの頃はもしかしたら明日、って思う可能性としての楽しみが、空想があったけれど。
今はもう何にもなれないんだなあってちょっと寂しく思う。
もう遅すぎるのだ。

毎日が楽しくないわけじゃないけど、平凡に安心するようになって、何もかも捨ててどこかへ旅立つこともできなくなって、それが(現実に生きる)幸せだって分かっているけれど、やっぱり何処にも何にもなれなくて、自分は現実に生きていたんだなあと実感してしまって悲しい。
もっと世界を救う生き方の選択肢があってもよかったんじゃないだろうか。

ゲーム機の中で選択肢を選んで、キャラクタと会話して、ダンジョンを走る主人公を見ながら、もう大人になってしまったんだなあとぼんやり思う。