3/04/2012

永遠に続く魔法の粉砕と有限の現実の共有


昔のことを語るときに、特に悲しかったことだとか憤りを感じたことだとかを話すときに罪悪感のような躊躇いがある。

小さい頃小学校でこんな理不尽にあったとか、親がこんなことを言ってきて悲しかったとか、大抵の人はひとつくらいあるだろう。失恋でもいいし、友達との喧嘩でもいいけれど、多分自分はそんなに悪くなかったんじゃないかなと思うことで傷ついた体験。
ふとした会話の中で思い出して、そうそうそういえば、と語り始めて言葉が口から漏れ出した途端にそのストーリィは途端に小石の混ざったハンバーグとでもいうのか、ザラついた「言わなきゃ良かった」に変わる。
幼い頃の感情を改めて客観的にみて、本当に自分が被害者だったのかよく分からなくなるからかもしれない。今更何の関係もない時間軸の違う相手に話したところで何になるだろうという虚しさがあるからかもしれない。
語りながら自分は一体何を伝えたかったのか、自分でもこんなこと口にして思い出したくなかったなんて思いながらザラザラザラザラ不快感だけを舌に残して言葉は零れていく。
「わかるよ」という。「私もあった」と同情する。誰かと似たような体験をしていることは多々ある。限りなく共感出来ている、と思うこともある。そうやって理解してもらえることが嬉しくもある。
それでもただ本当に欲しかったのは、理不尽にあったときに自分の代わりに正論で戦ってくれる大人だとか、失恋したときにもう一度恋に落とすくらい傍にいてくれる存在だとか、信頼を実感できる友人だとかそういう「そのときのヒーロー」なのだ。結局は過去の話をしながら内容が「そういうものがほしかったんだよね」という叶わなかった夢の報告になってしまうことが気持ち悪いのだろうと思う。

意識して「悲劇のヒロイン」になろうとしているんじゃないかと思う恐ろしさがあって、うまく悲しみだとか憤りを語れない。勿論語る必要なんてないのだけれど、なぜだか、突然誰かに話してみたくなることがあって、それは会話の中で思い出された記憶の痛みみたいなものをただわかって欲しいというだけなのだろうと思う。
痛みをわかってほしいはずなのに傷口は見られたくない、みたいな意識の矛盾がきっと罪悪感のような躊躇いを生むのだ。

と、分かったところで何が解決したわけでもないけれど。
ただ誰しも 知られたくない記憶に付随するわかって欲しい感情、というのはあるだろう。




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