10/19/2011

より不確かな未来

君はどこに向かって生きているの?

と随分前に友人に問われて、言葉が胸を貫くように刺さって、刺さった所からじわじわと体が冷えていくのを感じた。冷たい窓に触れて体温が奪われていく掌のような、心臓に遠いところから冷えていく感覚。

傷付いたわけではない。
ただ、生きることとそして向かう先と、それが現在と未来ってもので結ばれているものだということを改めて思い出した。というか、忘れていたことに気付いた。

私はどこへ向かって生きているのだろうか。

よく言っているが、叶えたかった願いは20歳になるまでに大体叶った。
その時あったのは漠然と「あとは消耗戦になるだろう」という諦めにも似た人生観だった。
人と分かり合えることだとか、分かり合えないことだとか、辛苦だとか幸福だとか、
そういったものに対して自分なりの価値観ができて、世間や人との摩擦に対してそれほど火傷することもなくなってきたと思う。言ってみれば「うまく諦めることが出来る」ようになった。
自分の人生が自分の思い通りに行くなんてことは、海の真ん中で自由に泳げると信じているようなもので、引力と他の生命体がある限り、思うが儘になんてならないのだ。

そういうことを踏まえたうえで、私は私の未来ってやつをどうしてやりたいんだろうと、ぼんやり考えた。多分、精神論はもう沢山で、今まで充分色々なものに縛られてきたから、これからは自由にやっていこうと思っている。自由っていうのは、責任が全部自分にあるってことだ。責任っていうのは、自分が選んだ未来の先を直視する覚悟を持つってことだ。
望む幸福は色々とあるけれど、どれも自分一人では叶わないものだから、そういうものを目指して生きるのはやめようと思った。そんな博打のような未来に覚悟を持って生きていけるほど精神は頑丈じゃない。

だから多分、どこに向かって生きているのか、はなるべく孤独に向かっている、が答えなのかもしれない。(死が孤独だとしたら模範解答だろう)
一人で生きていけるだけの力が欲しいと思う。それは社会的なことであったり(地位や名誉や能力ってやつだ)、精神的なことであったりする。孤独に生きていこうというわけじゃなく、一人でも何かに耐えうるだけの強さを得なければならないと思っている。

勿論、誰かに頼ったり頼られたりするって言うのは必要なことだけども。

この先どうしていきたいのか。
ただ、それでも、なるべく 明確に具体的に未来を言葉にして、自分の進路を固めてしまうのは避けていきたいと思う。
(予防線で躓くような事は避けたい)



名を持たぬ日々の累積ただそれを死ぬまで続く日常と呼ぶ 

10/14/2011

自縛霊・彼・使命感に笑顔

夜も寒いし朝も寒いし気付けば昼間も寒いみたいな季節になっていた。

あっというまに二桁月である。

自分の環境が大きく変化して、意外と順応も早かったりしてなんやかんや時間が過ぎるというよりは、時間を追いかけていた感じがします。
物凄い沢山のものを得たし、物凄い沢山のものを失ったし、これが等価交換だって言われたらハハハって笑うしかないです。大抵の物事はもうハハハって笑うしかない位置までしかいきません。
世の中の出来事は大丈夫か大丈夫じゃないかの二つしかないので言葉にするととても簡単に思えていいですね。生と死しかないから生物は単純って言ってるようなものです。

そんなわけないじゃん(小声)

はっきり言ってしまえば大学卒業までに所持していた物の5/6くらいを失ったわけです。
これはすごい、震災で家とかモロモロ失った人並です。過去が消えるって凄いです。
大事なものとか沢山あっても「命の方が大事でしょう」って言われたらもうそうとしか頷けないません。他の誰でもない自分の理性が納得してしまうので、どうしようもない。

しかして、自分がそれほど物に対してアイデンティティの依拠を行ってきたかと言われると、笑っちゃうくらいモノに対して諦めが早いのである。
まぁこれは「いつ壊るか分からない」っていうのを常に諦めって形で抱いていたからだともいえますが。
自分は、昔から「家」といわれてはっきりイメージできるものがなくて、所謂「実家」というものはあってもそこは帰る場所という認識はなかった。小学校低学年くらいから家は嫌いだったし、4,5年ごとに住む家が変わっていた所為もあるのかもしれない。
帰る場所という意味で「家」といわれてもいまいちピンとこない。

自分はどこに居てもどこにも居ない気がしている。
フワフワとした足のつかない、というよりは足の無い浮遊感。
不安でもないけれど、自分でもある日突然自分がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと不思議な杞憂に揺らされる。

それでも意思だとか矜持みたいな、ものはもっと無形の、有形ならば生命体に残してきているはずなので、なんとかなっているんだと思います。たぶんたぶん。

まぁただそれでも死ぬことからは随分遠くになった気がする。
生物的には死に近づいている筈なんだけどね。

どうしてこう、生きるってのは不便なことなんだろうか?ってのはいささか幼すぎる厭世なのかしらん。

10/03/2011

そして何処にもいけない


音楽と溢れる詩に自らの言葉が吹き荒び失われ行く気がする。

それほどでもない人生。

過去が遠ざかっていくのを感じる。(前にも書いたかもしれない)
自分の中で認めたくない連続性というものがあって(黒歴史なんかはまさにそうだろう)、数年前の自分なのにまるでアルバムの写真を見ているみたいに、切り取られた「思い出」の一つとして自分(の感覚)を認識していることがある。
昔の思い出を語るときのそれは、なんだか紙芝居みたいなよそよそしさを持っている。

そういったものが、段々フィルムになっていくように自分と連続している過去だったのだと、鈍い実感を伴うようになってきた。一言で言ってしまえば、生々しく気味が悪い 居心地の悪い感覚が燻る。大雨の日の運動靴みたいな ぐしゃっとした重たい実感。

一方で、自分の現在地点がふっと飛ぶことが多くなった。
連続の実感でレールが繋がったのだろうか。
重たい実感は現在の碇になりえると判断したのだろうか。

誰かと歩いているとき、ゆったりとした空気が漂っているとき、ふと体の中に一年前の自分が入り込むことがある。本当に瞬間だ。
そうして今私はここでこの人とこの場所を歩いているんだろう?
と、突然分からなくなる。現在地点に違和感を感じる。

あれどうして、
と思ってああそうか今ここはXXで、XXの帰り道で、そうだこの人は友人で、とじわじわ思い出す。
もしかして、
一分一秒毎に止まった世界点があって、その中を魂みたいなものが滑っていくだけで、僕ら時間を感じているのではないだろうか。
パラレルワールドって本当は何も動いていない数多の静止世界のことなんじゃないかしら?
きっとこう(右手をくるりと)している座標の世界と、こう(ぺたん)してる座標の世界があって、私の意識がそれを交互に彷徨うから、ぱたぱた動いてるだなんて認識しているだけなのかもしれない。

気味の悪い過去は、そういった世界を擬似的に彷徨うときの乗り物酔いみたいなもので、
気付かない居心地の悪さは車の中で寝てれば気持ち悪くならないとか、
乗り越えたトラウマは実は唾のみこめば治るとかそういうレベルの話なのかもしれない。
宇宙規模で考えれば。


(そう、宇宙規模で考えれば。)


一人になった部屋で、椅子に座って目を閉じて、なんだかフワフワする電子音楽を聴きながら、目を閉じてパラレルワールドを旅する想像をしてみる。
思い出せる大半は苦い過去で、痛い過去もあって、辛い過去もあって、楽しい過去は大体切なさが混じっている。過去なんてそうそう味わって思い出すものじゃない。

ただ、そういえばこんな悲しみを背負っていたなと
あんなに夕暮が鮮やかに見えていたなと
かつての視点に少しだけ潜り込んで、広がるパラレルワールドに宇宙とか感じてみたりして

そんなことをして生きてる実感とかいうやつを
時間というフィルタを通して苦笑気味に味わっているのだろう。

随分と、莫迦みたいな遊びだと思う。