10/03/2011

そして何処にもいけない


音楽と溢れる詩に自らの言葉が吹き荒び失われ行く気がする。

それほどでもない人生。

過去が遠ざかっていくのを感じる。(前にも書いたかもしれない)
自分の中で認めたくない連続性というものがあって(黒歴史なんかはまさにそうだろう)、数年前の自分なのにまるでアルバムの写真を見ているみたいに、切り取られた「思い出」の一つとして自分(の感覚)を認識していることがある。
昔の思い出を語るときのそれは、なんだか紙芝居みたいなよそよそしさを持っている。

そういったものが、段々フィルムになっていくように自分と連続している過去だったのだと、鈍い実感を伴うようになってきた。一言で言ってしまえば、生々しく気味が悪い 居心地の悪い感覚が燻る。大雨の日の運動靴みたいな ぐしゃっとした重たい実感。

一方で、自分の現在地点がふっと飛ぶことが多くなった。
連続の実感でレールが繋がったのだろうか。
重たい実感は現在の碇になりえると判断したのだろうか。

誰かと歩いているとき、ゆったりとした空気が漂っているとき、ふと体の中に一年前の自分が入り込むことがある。本当に瞬間だ。
そうして今私はここでこの人とこの場所を歩いているんだろう?
と、突然分からなくなる。現在地点に違和感を感じる。

あれどうして、
と思ってああそうか今ここはXXで、XXの帰り道で、そうだこの人は友人で、とじわじわ思い出す。
もしかして、
一分一秒毎に止まった世界点があって、その中を魂みたいなものが滑っていくだけで、僕ら時間を感じているのではないだろうか。
パラレルワールドって本当は何も動いていない数多の静止世界のことなんじゃないかしら?
きっとこう(右手をくるりと)している座標の世界と、こう(ぺたん)してる座標の世界があって、私の意識がそれを交互に彷徨うから、ぱたぱた動いてるだなんて認識しているだけなのかもしれない。

気味の悪い過去は、そういった世界を擬似的に彷徨うときの乗り物酔いみたいなもので、
気付かない居心地の悪さは車の中で寝てれば気持ち悪くならないとか、
乗り越えたトラウマは実は唾のみこめば治るとかそういうレベルの話なのかもしれない。
宇宙規模で考えれば。


(そう、宇宙規模で考えれば。)


一人になった部屋で、椅子に座って目を閉じて、なんだかフワフワする電子音楽を聴きながら、目を閉じてパラレルワールドを旅する想像をしてみる。
思い出せる大半は苦い過去で、痛い過去もあって、辛い過去もあって、楽しい過去は大体切なさが混じっている。過去なんてそうそう味わって思い出すものじゃない。

ただ、そういえばこんな悲しみを背負っていたなと
あんなに夕暮が鮮やかに見えていたなと
かつての視点に少しだけ潜り込んで、広がるパラレルワールドに宇宙とか感じてみたりして

そんなことをして生きてる実感とかいうやつを
時間というフィルタを通して苦笑気味に味わっているのだろう。

随分と、莫迦みたいな遊びだと思う。

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