12/21/2011
融雪の銀
あの角を曲がったら悲しみ始めようと思った。
ポケットに突っ込んだ手はじっとりと温く蒸れていて、時折びゅうと吹く北風が耳を凍らせる。
呼吸するたび僅かにマフラーに覆われた口元が温かくなる。
目線を上げて、遠く続く街路樹を眺めた。
もう殆ど見えなくなった。
今は幽かに眼球の霞みと紛う程度の銀がちらつく程度だ。
いつの頃からかは分からないが、私の見る世界にはいつも光や影とは無関係に銀色の小さな光が舞っていた。それが他人には見えないものであるということに何の違和感も、孤独感も感じなかったから、きっと後天的なものだったのだろうと思う。妖精というほど夢物語じみた意思疎通も、生物らしさもなく、ただ古びた白黒映画のフィルムに混じるノイズのように、自分の視界には銀色の光が混ざっていた。春の終わりにはまるで桜が煌いているかのように、澄んだ夜には星が増えたかのように銀色はそこにあった。季節に輝きを与える美しいと思ったし、この景色を誰かと共有できないことを少し惜しくも思った。そして私以外の人はこの景色よりも少しクリアな景色を見ているのかと哀愁に耽った。
あの頃、私の世界では常に銀の雪が降っていた。
足元から伝う冷気に侵される気がして歩みを速める。
夕刻に降った霙雨の跡がそこかしこに残っている。天気予報では今夜は雪だと言っていた。
きっと家に帰れば恋人が温かなシチューを作っていることだろう。
ただいま、といえば出来るだけ優しい声でおかえりと言ってくれるはずだ。野菜を煮込んだとろけるようなミルクの香りが部屋に漂っていて、ご飯の炊けるふつふつという音がして、きっと私はこれから、そういう幸福をずっと続けていくのだ。
そしてやがて銀の雪は見えなくなってしまうだろう。
気付いていた。
恋の幸福に身を落とすほどこの雪は溶けていくのだと。
愛してるという言葉を何度聞いただろう。
ベッドの中で、何気ない空気の中で、恥かしそうに、耳元で、目を見て、確かめ合うように、聞いてきた。
その度にきっと少しずつ私の世界に降る銀雪は溶かされていたに違いない。
心が満たされていく中で少しずつ私は自分自身も失われていく気がしていた。
満たされていくたびに重くなっていく身体。
そして減っていく銀の雪。
多分私は平凡に溺れることを恐れていた。
どこかに運命と呼べるような選択があるような気がしていた。
ずっとずっと、クローゼットの奥に繋がる亡国も、選ばれた存在になることも、私だけが持つ力も、突出した才能も、宇宙人が来ることも、科学戦争が起こることもなく、昨日予想した明日が続いていくことがどうしようもなく怖かったのだ。そうして想定内の日々を日常と呼び、誰かが生きたような人生を歩む平凡さが恐ろしくて仕方なかったのだ。
生命を賭けて切り開くだけの運命が無いことが、惨めに思えていた。
自分だけは殺されないと信じて幼い日々を過ごすように、私は自分だけは主人公となるような人生を歩むと信じていたのだ。
私の世界にだけ降り注ぐ銀の雪が、他人にとってどれほどの奇跡に見えたのかは知らない。
ただ私は、私の望む奇跡と運命に選ばれたかったのだ。
やがて予測された明日の連続はやがて平凡から安心へと変わっていった。
子供の頃に必死に手を伸ばしても届かなかった沢山の事柄が、いとも簡単に自分の手の中に入るようになっていった。知らなかった感覚と背負いたくも無い責任と消えてゆく逡巡が自分を変えていく気がしていた。そうして、ただ時間だけが努力を見捨てて自分の限界を壊していくことが少し虚しかった。それが成長ということなのだと、幼さを置いていくことなのだと分かっていながら止めることはできなかった。時の流れに身を削られて、そうして生命を賭けるほどの運命に出会わないまま、生命の重みだけが増していった。
此処に在らずだった自我は何処へも行けなくなって死に場所を決めた。
温かな場所。
愛してるの言葉でどんどん縛られていく、幸せな場所。
多分誰からも愛されていなければ、人間ではなく運命に愛されていれば私のこの世界はきっと、吹き荒ぶ美しい銀の冬を迎えていたのかもしれない。
なのに恋に落ちるたびにこんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
あの瞬間、あの瞬間はずっと、平凡さを望んでいたのた。
あの瞬間、あの瞬間にきっと、雪は融け始めていたのだ。
どんどん年を重ねることに、視界はクリアになってゆく。目に映る景色は鮮やかになっていく。
あんなにも眩しかった世界。
ようやく君にも春が来たね、
と笑っていた友人のあの言葉は私にとって長く続くはずだった美しい冬の最初の終わりを告げる言葉だった。
何度も春がきて、恋をして、夏がきて、恋をして、秋がきて、冬がきて
春がきて、春がきて、春がきて、
そして幾星霜の
春が。
永い恋が。
私はもう何処へも行けない。亡国にも科学戦争にも異星にも行かないのだ。
自分の手の中から失われていく異次元の輝きがもうこれ以上、どんなドラマチックも選べないことを証明していた。
顔をあげれば、幼い頃よりもずっとずっと遠くまで見える世界。
そうして映る色鮮やか過ぎる世界は悲しむには少し騒々しかった。
この角を曲がり、そうして次の交差点を渡ればもう家だ。
君に会えるだろう。
これから続く永い春の前の最後の冬が沁みる。
11/27/2011
接続詞のバラードⅠ
そういえば、と言うには遅すぎた
光化学スモッグについて話している時間を
今すぐ消せればそういえばに間に合うかもしれないが
あなたは百メートル先の霞むテールランプに夢中
やり直せないのは人間関係ばかりではない
疑似餌に釣られた魚はエビに釣られた魚よりも馬鹿なのか
捌いてみれば分かることだ
むしろ捌いてみるしか方法はない
ア・ポステリオリな白身魚達
近付くにつれてテールランプへの関心は強くなる
そういえばが遠ざかってゆく
好きだと言ってみてもお互い承知で
時間を止めることくらいしかできない
あなたの靴音がやけに耳に障る
後ろから見守っているふりをして
僕は先ほどから白身魚について考えていた
もうテールランプはいいのか
有効期限切れのそういえばがついさっき死んだ
11/10/2011
秋槻君と水溶性の彼女
秋槻君が彼女の横島さんと別れてからとても悲しんでいる。
この場合の別れというのは男女の価値観の違いなんかで恋人同士をやめるという事ではなくて、もっとシンプルなさよならという意味だ。
秋槻君が恋人とさよならしてからとても悲しんでいるのだ。
そもそも横島さんが水溶性だったことがこの悲しみの原因なのだ。
横島さんは水溶性だった。
横島さんはなるべくしてなったように美術部部長という役職がぴったりくる風貌のひとで、絵は飛びぬけて上手いというわけでもなかったけれど、日の当たる美術室で冷たくない素顔で絵を描いているのがとても印象的で、美術部員達はそういう風景を気に入っていた。
その横島さんが、キスをしたとたんに舌先から溶けていったというのだから美術部員達は驚いた。
もちろん一番驚いたのが秋槻君だったことは言うまでもない。
秋槻君が横島さんの腰に手を回して、胸と胸が触れ合ってしまうくらい近い距離まで近づいて、少しミルクの匂いのする横島さんの唇に秋槻くんはそっと触れて、それからキスをした。初めはお互いの唇の弾力を確かめるような些細なキスだったのに、体の接合を確かめるようなキスになって、とうとう秋槻君の舌が横島さんのミルクの匂いのする唇を割って入り、てろてろする舌に触れて、そのまま絡ませていたというのに、横島さんの舌は絡まったまま抵抗が消えていくので、秋槻君は不思議に思ってキスを解いた。
横島さんの舌は溶けていたのだ。
あっあっといいながら横島さんの口元はするするすると蜜が零れるように溶けていき、床には少し粘性のある透明な液体が溜まっていく。
あっぁつといいながら横島さんの目元に涙がたまったりして今度は頬のあたりがてろてろと溶けていって、秋槻君は気付いていなかったけれど太ももあたりだってとろとろに溶けていた。
そうやって横島さんがあっあっといっていくうちに横島さんの体はもうとろとろのてろてろになっていて秋槻君が抱きしめたってふやふやになってしまって、そうして三日月が沈む頃にはすっかり全部液体になってしまったのだ。
この場合、秋槻君は失恋したのかな。
兎に角横島さんはつまり、秋槻くんの唾液がじわじわ染みていって更には涙やら何やらで溶けてしまったというのだ。
なんと言う悲劇!
そういう事で秋槻君は彼女の横島さんを失って悲しみに暮れているし、美術部員達はいつもの風景がすこしばかり物足りないことに寂しさを感じているのだ。
期末テストが近づいていたが、悲しみや寂しさの前にはそんなもの無意味だった。
横島さんがいなくなったことで多くの人が涙を流していたが(秋槻君もその一人だ)誰一人として溶けたりしなかった。
そうして今でも美術準備室の床では染み付いた油絵の具や石膏の粉に混じって液体の横島さんが溜まりを作っている。
やがて、空気が澄んで空はからりと乾き、冷え込むようになった朝、液体の横島さんが静かにそこで小さな霜を作っているのを見て、秋槻君はまた恋が出来そうな気がしている。
冬になったら、また恋が出来そうな予感がしている。
指先で触れると瞬く間に溶けていく小さな霜に、抱きしめるのは難しいかな、と
少し困ったように笑っている。
秋槻君の彼女は水溶性である。
この場合の別れというのは男女の価値観の違いなんかで恋人同士をやめるという事ではなくて、もっとシンプルなさよならという意味だ。
秋槻君が恋人とさよならしてからとても悲しんでいるのだ。
そもそも横島さんが水溶性だったことがこの悲しみの原因なのだ。
横島さんは水溶性だった。
横島さんはなるべくしてなったように美術部部長という役職がぴったりくる風貌のひとで、絵は飛びぬけて上手いというわけでもなかったけれど、日の当たる美術室で冷たくない素顔で絵を描いているのがとても印象的で、美術部員達はそういう風景を気に入っていた。
その横島さんが、キスをしたとたんに舌先から溶けていったというのだから美術部員達は驚いた。
もちろん一番驚いたのが秋槻君だったことは言うまでもない。
秋槻君が横島さんの腰に手を回して、胸と胸が触れ合ってしまうくらい近い距離まで近づいて、少しミルクの匂いのする横島さんの唇に秋槻くんはそっと触れて、それからキスをした。初めはお互いの唇の弾力を確かめるような些細なキスだったのに、体の接合を確かめるようなキスになって、とうとう秋槻君の舌が横島さんのミルクの匂いのする唇を割って入り、てろてろする舌に触れて、そのまま絡ませていたというのに、横島さんの舌は絡まったまま抵抗が消えていくので、秋槻君は不思議に思ってキスを解いた。
横島さんの舌は溶けていたのだ。
あっあっといいながら横島さんの口元はするするすると蜜が零れるように溶けていき、床には少し粘性のある透明な液体が溜まっていく。
あっぁつといいながら横島さんの目元に涙がたまったりして今度は頬のあたりがてろてろと溶けていって、秋槻君は気付いていなかったけれど太ももあたりだってとろとろに溶けていた。
そうやって横島さんがあっあっといっていくうちに横島さんの体はもうとろとろのてろてろになっていて秋槻君が抱きしめたってふやふやになってしまって、そうして三日月が沈む頃にはすっかり全部液体になってしまったのだ。
この場合、秋槻君は失恋したのかな。
兎に角横島さんはつまり、秋槻くんの唾液がじわじわ染みていって更には涙やら何やらで溶けてしまったというのだ。
なんと言う悲劇!
そういう事で秋槻君は彼女の横島さんを失って悲しみに暮れているし、美術部員達はいつもの風景がすこしばかり物足りないことに寂しさを感じているのだ。
期末テストが近づいていたが、悲しみや寂しさの前にはそんなもの無意味だった。
横島さんがいなくなったことで多くの人が涙を流していたが(秋槻君もその一人だ)誰一人として溶けたりしなかった。
そうして今でも美術準備室の床では染み付いた油絵の具や石膏の粉に混じって液体の横島さんが溜まりを作っている。
やがて、空気が澄んで空はからりと乾き、冷え込むようになった朝、液体の横島さんが静かにそこで小さな霜を作っているのを見て、秋槻君はまた恋が出来そうな気がしている。
冬になったら、また恋が出来そうな予感がしている。
指先で触れると瞬く間に溶けていく小さな霜に、抱きしめるのは難しいかな、と
少し困ったように笑っている。
秋槻君の彼女は水溶性である。
10/19/2011
より不確かな未来
君はどこに向かって生きているの?
と随分前に友人に問われて、言葉が胸を貫くように刺さって、刺さった所からじわじわと体が冷えていくのを感じた。冷たい窓に触れて体温が奪われていく掌のような、心臓に遠いところから冷えていく感覚。
傷付いたわけではない。
ただ、生きることとそして向かう先と、それが現在と未来ってもので結ばれているものだということを改めて思い出した。というか、忘れていたことに気付いた。
私はどこへ向かって生きているのだろうか。
よく言っているが、叶えたかった願いは20歳になるまでに大体叶った。
その時あったのは漠然と「あとは消耗戦になるだろう」という諦めにも似た人生観だった。
人と分かり合えることだとか、分かり合えないことだとか、辛苦だとか幸福だとか、
そういったものに対して自分なりの価値観ができて、世間や人との摩擦に対してそれほど火傷することもなくなってきたと思う。言ってみれば「うまく諦めることが出来る」ようになった。
自分の人生が自分の思い通りに行くなんてことは、海の真ん中で自由に泳げると信じているようなもので、引力と他の生命体がある限り、思うが儘になんてならないのだ。
そういうことを踏まえたうえで、私は私の未来ってやつをどうしてやりたいんだろうと、ぼんやり考えた。多分、精神論はもう沢山で、今まで充分色々なものに縛られてきたから、これからは自由にやっていこうと思っている。自由っていうのは、責任が全部自分にあるってことだ。責任っていうのは、自分が選んだ未来の先を直視する覚悟を持つってことだ。
望む幸福は色々とあるけれど、どれも自分一人では叶わないものだから、そういうものを目指して生きるのはやめようと思った。そんな博打のような未来に覚悟を持って生きていけるほど精神は頑丈じゃない。
だから多分、どこに向かって生きているのか、はなるべく孤独に向かっている、が答えなのかもしれない。(死が孤独だとしたら模範解答だろう)
一人で生きていけるだけの力が欲しいと思う。それは社会的なことであったり(地位や名誉や能力ってやつだ)、精神的なことであったりする。孤独に生きていこうというわけじゃなく、一人でも何かに耐えうるだけの強さを得なければならないと思っている。
勿論、誰かに頼ったり頼られたりするって言うのは必要なことだけども。
この先どうしていきたいのか。
ただ、それでも、なるべく 明確に具体的に未来を言葉にして、自分の進路を固めてしまうのは避けていきたいと思う。
(予防線で躓くような事は避けたい)
名を持たぬ日々の累積ただそれを死ぬまで続く日常と呼ぶ
と随分前に友人に問われて、言葉が胸を貫くように刺さって、刺さった所からじわじわと体が冷えていくのを感じた。冷たい窓に触れて体温が奪われていく掌のような、心臓に遠いところから冷えていく感覚。
傷付いたわけではない。
ただ、生きることとそして向かう先と、それが現在と未来ってもので結ばれているものだということを改めて思い出した。というか、忘れていたことに気付いた。
私はどこへ向かって生きているのだろうか。
よく言っているが、叶えたかった願いは20歳になるまでに大体叶った。
その時あったのは漠然と「あとは消耗戦になるだろう」という諦めにも似た人生観だった。
人と分かり合えることだとか、分かり合えないことだとか、辛苦だとか幸福だとか、
そういったものに対して自分なりの価値観ができて、世間や人との摩擦に対してそれほど火傷することもなくなってきたと思う。言ってみれば「うまく諦めることが出来る」ようになった。
自分の人生が自分の思い通りに行くなんてことは、海の真ん中で自由に泳げると信じているようなもので、引力と他の生命体がある限り、思うが儘になんてならないのだ。
そういうことを踏まえたうえで、私は私の未来ってやつをどうしてやりたいんだろうと、ぼんやり考えた。多分、精神論はもう沢山で、今まで充分色々なものに縛られてきたから、これからは自由にやっていこうと思っている。自由っていうのは、責任が全部自分にあるってことだ。責任っていうのは、自分が選んだ未来の先を直視する覚悟を持つってことだ。
望む幸福は色々とあるけれど、どれも自分一人では叶わないものだから、そういうものを目指して生きるのはやめようと思った。そんな博打のような未来に覚悟を持って生きていけるほど精神は頑丈じゃない。
だから多分、どこに向かって生きているのか、はなるべく孤独に向かっている、が答えなのかもしれない。(死が孤独だとしたら模範解答だろう)
一人で生きていけるだけの力が欲しいと思う。それは社会的なことであったり(地位や名誉や能力ってやつだ)、精神的なことであったりする。孤独に生きていこうというわけじゃなく、一人でも何かに耐えうるだけの強さを得なければならないと思っている。
勿論、誰かに頼ったり頼られたりするって言うのは必要なことだけども。
この先どうしていきたいのか。
ただ、それでも、なるべく 明確に具体的に未来を言葉にして、自分の進路を固めてしまうのは避けていきたいと思う。
(予防線で躓くような事は避けたい)
名を持たぬ日々の累積ただそれを死ぬまで続く日常と呼ぶ
10/14/2011
自縛霊・彼・使命感に笑顔
夜も寒いし朝も寒いし気付けば昼間も寒いみたいな季節になっていた。
あっというまに二桁月である。
自分の環境が大きく変化して、意外と順応も早かったりしてなんやかんや時間が過ぎるというよりは、時間を追いかけていた感じがします。
物凄い沢山のものを得たし、物凄い沢山のものを失ったし、これが等価交換だって言われたらハハハって笑うしかないです。大抵の物事はもうハハハって笑うしかない位置までしかいきません。
世の中の出来事は大丈夫か大丈夫じゃないかの二つしかないので言葉にするととても簡単に思えていいですね。生と死しかないから生物は単純って言ってるようなものです。
そんなわけないじゃん(小声)
はっきり言ってしまえば大学卒業までに所持していた物の5/6くらいを失ったわけです。
これはすごい、震災で家とかモロモロ失った人並です。過去が消えるって凄いです。
大事なものとか沢山あっても「命の方が大事でしょう」って言われたらもうそうとしか頷けないません。他の誰でもない自分の理性が納得してしまうので、どうしようもない。
しかして、自分がそれほど物に対してアイデンティティの依拠を行ってきたかと言われると、笑っちゃうくらいモノに対して諦めが早いのである。
まぁこれは「いつ壊るか分からない」っていうのを常に諦めって形で抱いていたからだともいえますが。
自分は、昔から「家」といわれてはっきりイメージできるものがなくて、所謂「実家」というものはあってもそこは帰る場所という認識はなかった。小学校低学年くらいから家は嫌いだったし、4,5年ごとに住む家が変わっていた所為もあるのかもしれない。
帰る場所という意味で「家」といわれてもいまいちピンとこない。
自分はどこに居てもどこにも居ない気がしている。
フワフワとした足のつかない、というよりは足の無い浮遊感。
不安でもないけれど、自分でもある日突然自分がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと不思議な杞憂に揺らされる。
それでも意思だとか矜持みたいな、ものはもっと無形の、有形ならば生命体に残してきているはずなので、なんとかなっているんだと思います。たぶんたぶん。
まぁただそれでも死ぬことからは随分遠くになった気がする。
生物的には死に近づいている筈なんだけどね。
どうしてこう、生きるってのは不便なことなんだろうか?ってのはいささか幼すぎる厭世なのかしらん。
あっというまに二桁月である。
自分の環境が大きく変化して、意外と順応も早かったりしてなんやかんや時間が過ぎるというよりは、時間を追いかけていた感じがします。
物凄い沢山のものを得たし、物凄い沢山のものを失ったし、これが等価交換だって言われたらハハハって笑うしかないです。大抵の物事はもうハハハって笑うしかない位置までしかいきません。
世の中の出来事は大丈夫か大丈夫じゃないかの二つしかないので言葉にするととても簡単に思えていいですね。生と死しかないから生物は単純って言ってるようなものです。
そんなわけないじゃん(小声)
はっきり言ってしまえば大学卒業までに所持していた物の5/6くらいを失ったわけです。
これはすごい、震災で家とかモロモロ失った人並です。過去が消えるって凄いです。
大事なものとか沢山あっても「命の方が大事でしょう」って言われたらもうそうとしか頷けないません。他の誰でもない自分の理性が納得してしまうので、どうしようもない。
しかして、自分がそれほど物に対してアイデンティティの依拠を行ってきたかと言われると、笑っちゃうくらいモノに対して諦めが早いのである。
まぁこれは「いつ壊るか分からない」っていうのを常に諦めって形で抱いていたからだともいえますが。
自分は、昔から「家」といわれてはっきりイメージできるものがなくて、所謂「実家」というものはあってもそこは帰る場所という認識はなかった。小学校低学年くらいから家は嫌いだったし、4,5年ごとに住む家が変わっていた所為もあるのかもしれない。
帰る場所という意味で「家」といわれてもいまいちピンとこない。
自分はどこに居てもどこにも居ない気がしている。
フワフワとした足のつかない、というよりは足の無い浮遊感。
不安でもないけれど、自分でもある日突然自分がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと不思議な杞憂に揺らされる。
それでも意思だとか矜持みたいな、ものはもっと無形の、有形ならば生命体に残してきているはずなので、なんとかなっているんだと思います。たぶんたぶん。
まぁただそれでも死ぬことからは随分遠くになった気がする。
生物的には死に近づいている筈なんだけどね。
どうしてこう、生きるってのは不便なことなんだろうか?ってのはいささか幼すぎる厭世なのかしらん。
10/03/2011
そして何処にもいけない
音楽と溢れる詩に自らの言葉が吹き荒び失われ行く気がする。
それほどでもない人生。
過去が遠ざかっていくのを感じる。(前にも書いたかもしれない)
自分の中で認めたくない連続性というものがあって(黒歴史なんかはまさにそうだろう)、数年前の自分なのにまるでアルバムの写真を見ているみたいに、切り取られた「思い出」の一つとして自分(の感覚)を認識していることがある。
昔の思い出を語るときのそれは、なんだか紙芝居みたいなよそよそしさを持っている。
そういったものが、段々フィルムになっていくように自分と連続している過去だったのだと、鈍い実感を伴うようになってきた。一言で言ってしまえば、生々しく気味が悪い 居心地の悪い感覚が燻る。大雨の日の運動靴みたいな ぐしゃっとした重たい実感。
一方で、自分の現在地点がふっと飛ぶことが多くなった。
連続の実感でレールが繋がったのだろうか。
重たい実感は現在の碇になりえると判断したのだろうか。
誰かと歩いているとき、ゆったりとした空気が漂っているとき、ふと体の中に一年前の自分が入り込むことがある。本当に瞬間だ。
そうして今私はここでこの人とこの場所を歩いているんだろう?
と、突然分からなくなる。現在地点に違和感を感じる。
あれどうして、
と思ってああそうか今ここはXXで、XXの帰り道で、そうだこの人は友人で、とじわじわ思い出す。
もしかして、
一分一秒毎に止まった世界点があって、その中を魂みたいなものが滑っていくだけで、僕ら時間を感じているのではないだろうか。
パラレルワールドって本当は何も動いていない数多の静止世界のことなんじゃないかしら?
きっとこう(右手をくるりと)している座標の世界と、こう(ぺたん)してる座標の世界があって、私の意識がそれを交互に彷徨うから、ぱたぱた動いてるだなんて認識しているだけなのかもしれない。
気味の悪い過去は、そういった世界を擬似的に彷徨うときの乗り物酔いみたいなもので、
気付かない居心地の悪さは車の中で寝てれば気持ち悪くならないとか、
乗り越えたトラウマは実は唾のみこめば治るとかそういうレベルの話なのかもしれない。
宇宙規模で考えれば。
(そう、宇宙規模で考えれば。)
一人になった部屋で、椅子に座って目を閉じて、なんだかフワフワする電子音楽を聴きながら、目を閉じてパラレルワールドを旅する想像をしてみる。
思い出せる大半は苦い過去で、痛い過去もあって、辛い過去もあって、楽しい過去は大体切なさが混じっている。過去なんてそうそう味わって思い出すものじゃない。
ただ、そういえばこんな悲しみを背負っていたなと
あんなに夕暮が鮮やかに見えていたなと
かつての視点に少しだけ潜り込んで、広がるパラレルワールドに宇宙とか感じてみたりして
そんなことをして生きてる実感とかいうやつを
時間というフィルタを通して苦笑気味に味わっているのだろう。
随分と、莫迦みたいな遊びだと思う。
9/26/2011
きっと走馬灯は秋に走る自転車のように
目を閉じると薄荷の様な寂しさがすっと胸を流れる。
残暑というにはあまりにも記憶に薄い真夏が過ぎて、九月もそろそろ終わる。
先日の台風が僅かに残っていた夏を攫い、代わりに町を覆う煙たいような、甘みを含んだ夕方の風の香りが秋の訪れを感じさせる。
九月は終わりの季節だと、思う。
一年の区切りというものは人によって様々で、一月で区切る人もいれば四月を初めとする人もいる。自分も十二月には一年の終わりを、三月には別れの期を感じるけれど、それらは次なる始まりがすぐに待ち構えている。
私にとって九月はただただ終わるだけの季節だ。
新学期が始まり、夏休みという非日常がどんどん消えていくあの落ち着かない感じ
高校の頃は文化祭が九月だったから、その所為もあるのだろう
だいたいのイベントは九月で終わり、そこから先は平凡で日常的な生活が続く
大学の頃は単純に夏休みの終わりだった。
そういうものが混ざり混ざって、九月の記憶を作っているのだろう。
九月には、糸が解けるようにするすると様々なものが終わっていく。
そして十二月という一年の終わりを先に見る。
「今年も、もう終わっていくね」
と呟いて、早くなった夕暮れと肌寒くなった空気の中でデジャヴュに惑いながら、何か忘れてきたような、何か失くしてきたような、喪失感に襲われる。
何かを失くした九月があったのかもしれない。
感傷的というにはあまりにも漠然としていて、帰る場所が見当たらない。
寂しさや切なさというものは、求めるものがあって初めて行き場を失う。
原因も求めるものも無い喪失感というのは、ただ風船のように放たれて目の届かない上空で消えるのを待つしかない。心に留めることも出来ないまま、哀愁は垂れ流しである。
ただなんとなく九月になると何かが終わる気がして、何かが終わったような気がして少し寂しくなる。それだけのことで、こうしてずっと年を、秋を重ねてきた。
日が落ちて、金にも朱にも紺にも染まる西を背に
闇に溶けて輪郭を失っていく長い影を見ている。
九月が終わっていく。
残暑というにはあまりにも記憶に薄い真夏が過ぎて、九月もそろそろ終わる。
先日の台風が僅かに残っていた夏を攫い、代わりに町を覆う煙たいような、甘みを含んだ夕方の風の香りが秋の訪れを感じさせる。
九月は終わりの季節だと、思う。
一年の区切りというものは人によって様々で、一月で区切る人もいれば四月を初めとする人もいる。自分も十二月には一年の終わりを、三月には別れの期を感じるけれど、それらは次なる始まりがすぐに待ち構えている。
私にとって九月はただただ終わるだけの季節だ。
新学期が始まり、夏休みという非日常がどんどん消えていくあの落ち着かない感じ
高校の頃は文化祭が九月だったから、その所為もあるのだろう
だいたいのイベントは九月で終わり、そこから先は平凡で日常的な生活が続く
大学の頃は単純に夏休みの終わりだった。
そういうものが混ざり混ざって、九月の記憶を作っているのだろう。
九月には、糸が解けるようにするすると様々なものが終わっていく。
そして十二月という一年の終わりを先に見る。
「今年も、もう終わっていくね」
と呟いて、早くなった夕暮れと肌寒くなった空気の中でデジャヴュに惑いながら、何か忘れてきたような、何か失くしてきたような、喪失感に襲われる。
何かを失くした九月があったのかもしれない。
感傷的というにはあまりにも漠然としていて、帰る場所が見当たらない。
寂しさや切なさというものは、求めるものがあって初めて行き場を失う。
原因も求めるものも無い喪失感というのは、ただ風船のように放たれて目の届かない上空で消えるのを待つしかない。心に留めることも出来ないまま、哀愁は垂れ流しである。
ただなんとなく九月になると何かが終わる気がして、何かが終わったような気がして少し寂しくなる。それだけのことで、こうしてずっと年を、秋を重ねてきた。
日が落ちて、金にも朱にも紺にも染まる西を背に
闇に溶けて輪郭を失っていく長い影を見ている。
九月が終わっていく。
9/03/2011
3/08/2011
2/03/2011
ブログ移行しました
Bloggerがちょっと使いづらくて、はてなダイアリーに移行しました。
広告が無くてシンプルで良い。
ただ、ちょっと書き方が特徴的なので、慣れるまでもやもや。
昔の記事も、結局HTML編集してたりして、嗚呼こうやって必要から知識は増えていくのねって…
http://d.hatena.ne.jp/Rfeloa/
今後もご贔屓いただければ幸いです。
広告が無くてシンプルで良い。
ただ、ちょっと書き方が特徴的なので、慣れるまでもやもや。
昔の記事も、結局HTML編集してたりして、嗚呼こうやって必要から知識は増えていくのねって…
http://d.hatena.ne.jp/Rfeloa/
今後もご贔屓いただければ幸いです。
1/29/2011
1/26/2011
「昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ」
「昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ」
昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ
黒いやつだった
おれはよくその金魚を見ながら
不味いエスプレッソを飲んだもんだ
金魚のために気取っていたんだ
あいつ
小汚いウエイトレスが
しょっちゅう注文を噛むところなんて
滑稽だったぜ
(エシュプレッソ)(エスプレッショ)(エツプレッソ)
メダカを殺したい
なぜメダカではなくおまえが死んだのだ
運命か
おれはもうあの喫茶店にはいかない
エスプレッソがクソまずい
あと高い
しねよ おれ以外の全部
昨日よく行く喫茶店の金魚が死んだ
昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ
黒いやつだった
おれはよくその金魚を見ながら
不味いエスプレッソを飲んだもんだ
金魚のために気取っていたんだ
あいつ
小汚いウエイトレスが
しょっちゅう注文を噛むところなんて
滑稽だったぜ
(エシュプレッソ)(エスプレッショ)(エツプレッソ)
メダカを殺したい
なぜメダカではなくおまえが死んだのだ
運命か
おれはもうあの喫茶店にはいかない
エスプレッソがクソまずい
あと高い
しねよ おれ以外の全部
昨日よく行く喫茶店の金魚が死んだ
1/01/2011
今年が始まります
あけましておめでとうございます
どうなるのでしょう今年は。
兎に角、大事なものはぎゅっとして、新しいものを作ったりしていきたいですね。
絵でもアニメでも人間関係でも。
今年もよろしくお願いします。
あなたにとって歓びある一年になりますよう
平成23年.元旦
どうなるのでしょう今年は。
兎に角、大事なものはぎゅっとして、新しいものを作ったりしていきたいですね。
絵でもアニメでも人間関係でも。
今年もよろしくお願いします。
あなたにとって歓びある一年になりますよう
平成23年.元旦
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