12/20/2012

みっちゃんの話をしよう

いまだにみっちゃんのことが忘れられない。

話は小学校低学年時代まで戻る。
私は、小学4年生の夏休みが始まる前に転校してしまったので、これは転校する前の小学校でのお話である。

転校する前の小学校は小さな町の小さな小学校で学年全体でも40人いるかどうかだった。男女は多分半々くらい、1クラスは20人構成だったと思う。クラス替えは偶数学年のみ行われるから、1,2年のときは同じクラスのまま持ち上がりだった。もっとも4年生になるときには2クラス作るだけの人数がいなくなってしまって、35人くらいの1学級に纏まってしまったのだが。

その1,2年のときのクラスメイトにみっちゃんという女の子がいた。
雰囲気は『謎の彼女X』の謎の彼女(卜部 美琴)みたいな子だ。少し目が隠れるような前髪、肩につかないくらいのショートカット、それから猫みたいに細い目が印象的な子だった。
いつも本を読んでいるような大人しい子で、休み時間も活発に外に出て遊ぶような子ではなかった。私も本が好きだったから、図書館でよく会うことが多かったように思う。今まで十回くらい読み直した大好きなミヒャル・エンデの本、『モモ』もみっちゃんが読んでいたから、面白いのかな、と思って読み始めた。だから私にとってみっちゃんが特別であるのは、そういう切欠の持ち主だからという点もある。

話を進めよう。
私は休み時間はどちらかというと皆とワイワイやって外を走り回ったりして過ごす方だったので、みっちゃんとは特別親しかった(女の子の言う”同じグループ”というやつ)ではなかった。
しかし、私にとってみっちゃんは特別な女の子だった。

ある日、なんでかみっちゃんの家に遊びにいくことがあった。遊びに、といっても学校の帰りにたまたま何か用事があって立ち寄ったという方が近い。とにかく私はみっちゃんの家に行った。
みっちゃんの家は、和風の、畳が良く似合うお家だったと思う。おじゃまします、といって(この辺よく躾られている子だったのだ)あがって、居間に座って待っていると、みっちゃんは、「栄養をつけなきゃ」と言って生卵を飲みはじめたのだ。
これが衝撃的だった。
当時の私には「生卵を飲む」という文化がなかった。というか知識もなかった。そこで、卵を飲む、というのは何だかとても凄いことで、いうなればアロエの葉をすりおろして飲む、生姜を搾って飲む、といった高尚な知識のもとになされる医学的な行為、あるいは修行僧なんかが自分を高めるためにすることのように思えたのだ。生卵を飲む習慣のあるみっちゃん、がとても高いところにいる女の子のような気がした。私が驚いて「生卵、のむの」と聞くと、みっちゃんは「フフフ」と笑ってこくん、と生卵を飲み込んでいた。
それから、みっちゃんとおしゃべりをしていて、当時はやっていたポケモン(ゲームボーイでやるやつだ)を見せてくれるという話になった。当時、私はポケモン自体はカードやアニメで知っていたが、ゲームボーイは持っていなかった。ゲーム機に電源をいれて、ポケモンを戦わせるシーンを見せてくれた。
するとオトヒメ、という名前のポケモンが出てくる。
「これトサキント(金魚みたいなポケモンだ)じゃないの?」
と聞くと、みっちゃんは「うん、オトヒメって名前にしてるの」と答えた。
これも衝撃だった。
ポケモンの名前を変えてる!!公式で名前がちゃんとあるのに!しかもオトヒメなんて素敵な名前をつけてる!!
ワーみっちゃんめっちゃポケモン飼い慣らしてる!!!
そんなことを自然にやってしまうみっちゃんがとても大人に見えた。もうくらくらである。
生卵を飲む習慣があって、ポケモンの名前をさらりと自分のセンスで変えてしまうみっちゃん。
幼心にみっちゃんにある揺るがない何かに、私はすごく憧れていた。

みっちゃんのもつ揺るがない何か、は小学3年生になっても揺らぐことはなかった。
その頃には、みっちゃんがちょっと変わっている、というのはクラスでも周知の事実で、あるとき授業が始まる前に先生が「なにそれ、どうしたの」と頓狂な声を上げたことがあった。なんとみっちゃんは自分の机いっぱいに液体のりで水溜りを作っていたのだ。「どうなるのかな、と思って」とこともなげに答えたみっちゃんは、その液体のりの水溜りを横から見たり、机を傾けたりして楽しんでいたが、先生に「授業ができないでしょう」と言われ、渋々のりの水溜りを片付けていた。
クラスの端々では「みっちゃん何してるのー」「変なのー」という声がしていたが、私はそのみっちゃんの、「どうなるのかな、と思って」という言葉にくらくらしていた。
どうなるのかな、と思っただけでのりを机にべろべろべろーっと垂らしたわけである。
揺るがない。揺るがないというか、自由に飛びすぎである。
その自由すぎる発想と行動力に、みっちゃんはなんて素敵なんだろう、と思っていた。
(今でも時々その節はあるが、私は、発想が自分の想像のはるか外側にある人に、どきどきしてしまうところがあるのだ。)

残念ながらみっちゃんとはそれほど親しかったわけでもなく、当時は携帯なんてものもなかったから、小学4年生時の転校以来会ってもいないし連絡先も知らない。
それどころかみっちゃんの本名も思い出せない。

それでも未だに、小中高と過ごしてきて、みっちゃんほど素敵な女の子はいなかったと思う。


12/05/2012

どこかで聞いたようなデ・ジャヴュ

お菓子を作るときはいつも深夜だった。

大学の頃は寮に住んでいたからご飯時に共同キッチンを占領するなんてことはできず、休日の人のいない午後か、深夜によくケーキやクッキーを焼いていた。
どこかで部屋の扉が閉まる音や、遅く帰ってきた人たちがゆっくり階段を上るスリッパの音に、何か企みごとをしているような、甘い罪悪感のあるどきどきを抱えて、一人深夜、卵を泡立て、粉を計り、砂糖を舐めていた。
オーブンのタイマーがゆっくりと時を計る電熱の微かなジーっという音。
そうして皆が寝静まった暗い廊下に、窓辺からしみこんだ冬の冷気みたいに広がってゆく甘い焼きたての香りが私はとても好きだった。

一人暮らしをするようになった今も、お菓子を作るのは深夜だ。
今ではもう2時や3時に作ることはないけれど、やっぱり夜11時くらいから作り始めていることが多い。
多分、あの深夜の孤独感が、お菓子を作るのにちょうどいいのだと思う。
プレゼントを隠しているような悪戯心のようなどきどきとか、独り占めしている甘い香りだとか、そういったものの素敵さが好きなのだ。

できあがった焼き立てのお菓子を少し味見していると、だいたい作る前に思い悩んでいた灰色はふわーっと薄れていく。
何かに迷ったり、とくに可能性としての不安に悩んでいるときはお菓子を作るに限る。
バターを切ったり、砂糖を計ったりして、ボールの中でかしゃかしゃと泡立てているとき、どうすればよいかわからないような不安や情けなさみたいなものが、ぽろぽろ表れてくる。なんだか泣き出したいような気持ちで白くもったりするまで混ぜる、というレシピの言葉を思い出しては、かしゃかしゃ泡だて器を回す。
だれかに言ってしまったらなんでもないことになって終わるのかな、なんてぼんやり思いながら、身体はきちんとお菓子作りをしている。粉をふるったり、ゴムべらでサックリ混ぜたりしているうちに、多分このままこうやってぼんやり悩んでいることは杞憂で結局のところなるようにしかならんのだろうな、と思う。
温まったオーブンをあけて、ケーキ型を入れて、タイマーをもう一度回す。
そこからゆっくりと、穏やかなカウントダウンだ。
焦げ過ぎないように、とそわそわしながら、少しその場を離れて読みかけた本などをとりに行く。
カウントダウンも半分もすぎれば、甘い香りが漂い始める。
この頃にはさっきまでの灰色の気持ちはすっと霞み始める。

深夜には大きすぎるチン、という音が鳴ると、お菓子の完成だ。
一人で食べるには少し多すぎる量の、パウンドケーキやチョコケーキ、タルトやパイが焼きあがる。

焼きたてのチョコケーキはこんなに甘い、なんて知らないだろうな。
少し熱いカスタードがチェリータルトによく合うことや、パウンドケーキの温かいバターが優しく舌にしみこむことを。

誰も知らなければ良い。



11/13/2012

ゴーギャンもきっと同じことを考えていた

私が人間というのは、キャベツ畑からぽこんと生えてきたりど、こからともなくコウノトリが運んだりしてくるのではなく、精子と卵子が接合、受精して生まれるということを知ったのは6歳の頃だったと思う。
本が好きな子どもだったから、マンガで学ぶ人間のしくみ、みたいな本も沢山読んでいた。
ただ、そのころは受精で子どもが出来ること、精子は男性が、卵子は女性が保有しているということを知っているだけだったので、おそらく受精とは、精子が空中を漂って、卵殻へたどり着くのだろうと思っていた。
なんでお父さんとお母さんがハッキリしているのかわからなかったが、そこは何か、愛みたいなモヤモヤっとした事情が上手く采配しているんだろうと思った。
分からないことを親に聞くタイプの子ではなかったので、そういうことで納得していた。

ところで、(生殖行為を目的とせず)無駄に精液を出すことを「殺す」なんて揶揄している話はよく聞くけれど、女性の生理について、殺すとはいわないよなと思った。

ということは、魂は精液に宿ると考えられているのだろうか。

死んだら魂はどこへ行くのか、というのはもう手垢にまみれた議題だろうけど、魂はどこからやってくるのかについてはあまり聞かない。

生命の始まりというか、胎児が人として扱われ始めるのはいつなのか、という話は医学や法学では充分討論されてきた分野だけれど、じゃあある地点から人として生命個体として認識されるとして、そこに宿った魂はどこから来ているのだろうか、という文学的な解釈は一体どうなっているんだろう。

もし精液に魂が宿っていた場合、勿論男性(雄)の魂の一部が削り取られているのだろうか。
腹上死ってもしかして持っていかれすぎた結果なのか。

とういうようなことを考えながら恩田陸さんの『不連続の世界』を読んでいたら、

「精子はあくまでもスイッチであって、それ以外のもんは全部女だけでまかなえるってことだね。クローンなんかは、電気的な刺激を細胞に与えるだけで、あれだけの個体が出来ちゃうわけだし」
「ゲーッ。そのうちほんとに、男なんか必要じゃなくなるってことか」
などと書いてあり、スイッチの真偽のほどはトモカク、精子がなくても生命が誕生するのは事実なので、おそらく魂は別の場所に宿っているか、あるいは別の場所にも宿っているらしかった。
もちろん、クローンに魂が宿っていない可能性もある。
しかし、この話はもはや魂が一体何なのかという話に繋がるのでやめておく。

とすると、卵に魂が宿るということなのだろうか。
排卵って魂を削り取ることだったんだろうか。しかしそうすると、排卵の時点で生命が誕生するほうが理にかなっているような気もするが。
あれ、精子の役目って一体何なんだろう…

疲れてきた。

これが
我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々は何処へ行くのか
ということか…

11/04/2012

ジンテーゼのロック

温かい紅茶に垂らしたブランデーが心地良い。
少し未来の話をした昨日のことを、思い出していた。

どうにも未来への見方が幼すぎる気がするけれど、どうにも5年以上先を見越して動くようなことができない。精神論で片付く問題ではないのだが。

未来の不確実性というか、あまりにも描く未来が都合のよい前提条件によって成り立っているような気がして怖い。多分心のどこかで、身近な人たちが死ぬ可能性というものをずっと予測している(やがてくる悲しみに備えて)

そもそも大体、自分の人生について振り返ると「なるようにしかならない」という感想ばかり聞く。
まぁそれは決して事前に悟って諦めるための言葉ではないとは思うけれども。

とりあえず現状に満足していないなら考えて悩むよりも、何か、そのためにと考えて動いたほうが有意義。結果的に有意義なのかは別として、不安潰しにはなるよな、というのが最近の行動理念かしら。

どこぞの専門学校のCMみたく「じゃあ僕はxxxになるよ!」とはりきって言えるほど生きていく手段に対して強い意志はないのだ

酔いが醒めるまで少し起きていよう

10/09/2012

これから始まる、希望という名の未来を

リトバスを一通り終えて、(自分の昔を振り返って思ったのは)、やっぱり、差し伸べられる手を掴む、って体験はきっと何かの始まりになるのだなぁということでした。

6/14/2012

始まり始めた初夏の夏



生きてきた時間を海風に流した。

どこからか聞こえてくる雨音はきっと耳に残る竹林のざわめきであろう。
天国に行くのに必要なのは小指の骨だけである。
右なのか左なのかわからないが、とりあえず僕は小指の骨だけを残し、その他の総てを燃やした。これだけ人類が進化して、文明が発達したのに未だに人間はよく燃える。時折パキパキと骨にしみこんだ記憶が折れる音がしたが、それはよく燃えた。我ながら心臓が燃え尽きたときは初恋を失ったときのような寂しさと切なさがあった。

心なんてものがなければよかった、と最後から二番目の恋人が囁いていたのを覚えている。夜を思い出させる名前だったと思うがはっきりとは思い出せない。とても頭が良くて、美しい人だった。夜、僕が眠ったのを確かめてからそっと僕の横で弱みを呟くのが癖だった。その度にまどろみの中で僕は彼女が泣いている夢を見ていた。さよならと別れたときにふと思ったのはもし彼女が僕が起きているときに弱みを零してくれたら未来は変わったのだろうか、ということだった。
それでも彼女にあったのはダレカに零したい弱みであって、支えてもらわなくては生きていけない弱さではなかったのだろう。

実際のところ心なんてものがあったのかは知らない。

許さなくてはいけない、と彼方から声がする。
我々の人生は選択の連続だと言っていた。
選んで掴んできたか、選んで捨ててきたかの違いで人の目線は分かる、と彼は言った。私は選んで捨ててきた、と言った。
生死を決めるのは魂の所在であり、彼の目線で見る世界では動いている死体というものが存在していた。魂が体ではないところにある人々が多すぎる、と嘆いていた。
もう既に死んだ男の話だ。

実際のところ、魂なんてものがあったのかは知らない。

ヘルタースケルターと地獄は関係がないということに気付くのに7年も掛かった。
7年は長い。
7年あれば何ができただろうか。

長い道のりだったと思う。
耳の奥で反響し続けている雨音のような竹林のざわめきが五月蝿い。
生きてきて良かったと思う。
目を閉じればピーコックブルーの空が広がっている。
海風にのって遥か南を目指す僕の骨灰はきっと数キロ先で海に落ちるだろう。それでもそれに気付かないふりをして遠く南へ辿りつくのだと思っていたい。僕は自らの意思で、ヘルタースケルターと地獄に何の関係もないということに7年間気付かないでいたかったのだ。
じきにここにも夏が来るだろう。

あとしばらく小指は残しておかなければならない。
そう、天国にいくためには……

4/30/2012

エスカレーター・ペスカトーレ


三軒隣の子猫が遊びに来るようになって今日で六日目となった。
昨日は付き合って二年経つ彼女と郊外のショッピングモールへ出かけて、なにやら沢山お買い物していた彼女は今もまだベッドの中で惰眠を貪っている。青いふかふかのマクラにうねうねと広がる髪の毛は気味の悪いイカスミパスタのようで、そういえばそろそろ十三時になるなと僕は思い出す。
気味の悪くないイカスミパスタなんて無いんじゃないかな。

そういえば昨日のショッピングモールにあったむやみやたらに長いエスカレーターで僕に背を向けながら彼女が呟いたわたしがほんとうはケースオフィサだったらどうするが忘れられないでもすぐに忘れたい。
日曜日に相応しいカラっと晴れた青空の下で、さっき干したばかりの二枚のバスタオルが風に揺れている。
足元でじゃれつく子猫を裏返しながら、彼女はいったいいつ起きてくるのだろうかとぼんやり考えた。
昨日はだいぶはしゃいでたみたいだし。
でも、
僕の腕の中でだいすきだいすき言ってるよりも、僕だけにしか見せない表情があることよりも、こうして僕が起きているところで彼女が寝ているという瞬間が一番、彼女が自分のものになっている気がする。
下りエスカレーターで僕より一段下で背を向けながら楽しそうに喋っている時とかね。
きっと、アッいま僕は彼女をこんなに簡単にころせるのだ、という瞬間にころさないでいるっていうのが愛だと思うのよね僕の。僕が僕の彼女への愛を感じる瞬間の。
実際のところ、彼女が僕をいつか嫌いになるんじゃないかとか、本当は彼女の愛は醒めてるんじゃないかって不安よりも、自分がいつか彼女を嫌いになるんじゃないかとか、本当に彼女を好きなのかってことの方が怖かったりする。何か食べたいと思うのはおなかが空いているからだし、どうにも眠いのは睡眠が足りていないからだけど、何かを好きになることにハッキリとした原因はない。綺麗だとか、嫌いだとか思うことの原因が曖昧でも意外と生きていけるってことは僕ら、15歳くらいまでに分かることだけど、20歳くらいになってくると好きってことの原因が曖昧だとちょっと怖くなってくるんだよね。
もしかしたら生きていけないかも、なんて思い始めちゃったりする。
だから基盤がグラグラでも「あーやっぱ好きだ!めっちゃ好きだ!大丈夫!」ってゴリゴリ上書されちゃうような自分を信じられる瞬間があると安心するんじゃないかな。やっぱり僕は定期的にエスカレーターで彼女の後ろに立って、自分の彼女への愛を確かめていこう。

頂上からだいぶずり落ちてきたらしい昼の太陽が直接ベッドに挿し込んでくるようになって、ようやく彼女が「ううぅん」とかなんとか言いながらベッドの中でもぞもぞしだした。
僕は足元の子猫を表返しにしてぱふぱふ叩いてしゃんとさせる。子猫は思い出したように三軒隣を目指してヨテテテと帰っていった。僕もぐっと伸びをして身体をしゃんとさせる。それから、未だモヌモヌ言っている彼女の元に戻る。
「もう昼だよ」
ベッドに腰掛けて、彼女の長い髪に指を入れ、梳くと、光に晒されて眩しそうにも未だ眠そうにも見える表情が見えた。
「いまなんじ?」
もう昼の二時、と答えながら彼女の頬を撫でる。彼女がくすぐったそうに笑った。
「あかんあかん、おきないと」
そう言いながら僕をベッドの中に引き摺りこもうとする。
横になってみると思いのほか直射日光が眩しくて、ベッドは暑くて、でも彼女がこんなにくっついてきているし悪くは無いかなと思う。好きだし。

日曜日に相応しいカラっと晴れた青空は遠く、部屋に入ってくる涼風がカレンダーより初早い夏の訪れを感じさせていた。
こんな日々がずっと続いていけばいいな、とぼんやり思った。





4/16/2012

孤独が脊椎に宿ることを君は知らない



きっとなんだか捉えたい感覚というのがあって、そういうものを探すために色々音楽を聴いてみて悲しいとか寂しいとか恋しいとかそういう感覚を探してみるけど、大体どれもしっくりこなくてモゾモゾした居心地の悪さが残る。
相手だってわかってるけど別れ際にまた会おうって言い忘れたな、みたいな心残り。

一人でとぼとぼ帰り道を歩いていたり電車に乗っていたりすると「そうだそうだ」みたいな感じで言葉がどんどん溢れてくるのに、それをフィクションだって良いから残そうと思って白紙を目の前にした瞬間に、何も思い浮かばなくなる。マイナスの感情とか悩みなら忘れた儘で良いじゃん、とも思うけれど、自分としてはこういう頭の中で小説の一節のようにふと浮かぶ感覚をアイデンティティの一つだと思っていたいのだ。
もしも私が芸術家なら作風になっていただろうなという感覚。

「A型なの?私B型だから輸血できないね」という何気ない会話に感じる理不尽な罪悪感というか寂しさだとか、目の前の連れが喫茶店でアイスコーヒーにミルクを入れてすぐにかき混ぜてしまう所を見たときの(ああ、違う。)というパズルピースが嵌らない感じだとか(私はアイスコーヒーの中をミルクがしゅるしゅる踊るように溶けていく様を見ているのが好きなのだ)、誰かと話しながらだんだんその人の話が自分からどんどん遠ざかっていく虚ろさだとか、
そういうものを感じた瞬間。
その瞬間にだいたい、ふわっと思考が飛んで何か掴んでいる。

そうだな、いつも寝ているベッドのシーツを整えようとシーツの端を掴んでふわっとさせたときの、あのシーツが空中で波打ち、その下を空気が流れて、やがてシーツが重力にしたがって落ちてきて、ベッドの上に少し乱れて着地する、そんな感じだ。
そんな感じの隙間だとかズレが心の中で起こる。
ふわっと、空気みたいなのがするっと抜けて、ズレる。

なんだろうなあ。
これが一人の人間に一つの命しか宿らない孤独なのかしら。

3/27/2012

揮発性メメントモリ


例えば美しい油絵も近づけば絵具の羅列でしかなくて、更に近づいてその本質を探ろうとすればそこにあるのはもはや絵ではなくただの顔料と乾性油でしかない。

本質を探るときに徐々に失われていくのは感性である、というお話。

毎日を生きていくに当って、悲しいことだとか嬉しいことだとか辛いことだとかというのは唐突にやってきて、しかも確実に影響を与えて去っていく。ちょっとした知らせが奪っていく心の平穏だとか、つもり積もった虚しさの所在だとか、そういうものに火曜日とか水曜日に気付いてしまったりして、不味いな、と思う。
24時間は止まってくれない。
とりあえず、と思い直す。とりあえずこの悲しみだとか辛さだとかというものは週末にまとめて感じよう、と考える。平日にそういったことに心を囚われていては多分まだまだ残っている明日明後日明々後日が過ごせない、そういうことが分かっているのだ。

悲しいことがあると、どうして悲しいんだろうと考える。
原因に思い当たる。
何故自分にとっては悲しいのか(果たして他の人にとっては悲しくない事柄なのだろうか)
そうやって粒さに本質を探っていって原因が見えたところで
よし、この問題は全部わかったぞ、後でゆっくり余韻に浸ろう。
みたいな気持ちでやり過ごす。
ヤヤコシイ感情は全部隅においやって、とりあえずやるべきことをやらねばならぬのだ。

そうやって果敢な研究者みたいな平日を過ごして、日曜日になってみるとまるでその時の悲しみが思い出せないのだ。悲しかっただとか辛かったという事実だけは覚えていて、カサブタになってしまった傷の痛みが思い出せないように、妙に気になる跡ばかりなぞる羽目になる。そうだ、確かここを怪我したときは痛かったということは思い出せるのにもう一度その痛みで泣くことはできない。
何故悲しかったのか、何が自分を辛く思わせる原因になっていたかはハッキリしていて、きちんと説明もできるのに、どれだけその過程をなぞっても気持ちは空っぽのままで、いやに晴れた日曜日だなあとかそういうことが次第に心を浸食し始めて、まあいっか、と悲しみだとか辛さは心の隅で蒸発していく。


面白かったことも楽しかったことも、その場で誰かに言わないと、どんどん色褪せていく。
2週間くらいしてから「ねえそういえば、」といった感じで話し始めた途端に物凄くその事柄が詰まらない、なんでもない日常に思えてきて誰より一番自分が興醒めしていることに気付く。

感情はナマモノだから、とかなんとか言った台詞がどこかにあったような気もするが、腐るというよりはどんどん蒸発していってしまうイメージである。
乾いた跡だけがのこって「そうここに水があったのさ」なんていったところでそれは事実の一つでしかなく、「だからどうした」という自問に潰されてしまう。


そうして日々を過ごしていくことは結構賢いことなんだろうな、とも思う。(悲しみだとか辛さってものに対しては)
コミュニケーションスキルだとかストレスコントロールだとかありきたりな処世術がどこかで評価されていて、要はどれだけ毎日を上手くかわしていくかということが長く生きるためには必要なのだろう。
ただ、なんとなくそうやって乾いて残って汚れた跡を割り切って過ごすというか
どうにも自分には上手く忘れられないというか、
「あああの時泣いておけば良かったんじゃないか」という涙の勿体無さというか
優等生も100点を誇らしげに自慢してもよかったんじゃないかな
みたいな
アタリマエだけどアタリマエじゃなかった頃もあったはずだよなあ
といった
成長に対する寂寞がいつまでたっても離れない。

でもこうやって幼い感覚だとか感情の制御の効かなさみたいなものを惜しむのは、きっとこういうものを失って自分よりもずっとずっと若くて幼い子供の気持ちが段々分からなくなるんじゃないかという不安があるからなのかもな、と思う。
どんどん分からなくなって、自分が子供だったこともいつか忘れてしまいそうな気がしていて少し こわい。






3/04/2012

永遠に続く魔法の粉砕と有限の現実の共有


昔のことを語るときに、特に悲しかったことだとか憤りを感じたことだとかを話すときに罪悪感のような躊躇いがある。

小さい頃小学校でこんな理不尽にあったとか、親がこんなことを言ってきて悲しかったとか、大抵の人はひとつくらいあるだろう。失恋でもいいし、友達との喧嘩でもいいけれど、多分自分はそんなに悪くなかったんじゃないかなと思うことで傷ついた体験。
ふとした会話の中で思い出して、そうそうそういえば、と語り始めて言葉が口から漏れ出した途端にそのストーリィは途端に小石の混ざったハンバーグとでもいうのか、ザラついた「言わなきゃ良かった」に変わる。
幼い頃の感情を改めて客観的にみて、本当に自分が被害者だったのかよく分からなくなるからかもしれない。今更何の関係もない時間軸の違う相手に話したところで何になるだろうという虚しさがあるからかもしれない。
語りながら自分は一体何を伝えたかったのか、自分でもこんなこと口にして思い出したくなかったなんて思いながらザラザラザラザラ不快感だけを舌に残して言葉は零れていく。
「わかるよ」という。「私もあった」と同情する。誰かと似たような体験をしていることは多々ある。限りなく共感出来ている、と思うこともある。そうやって理解してもらえることが嬉しくもある。
それでもただ本当に欲しかったのは、理不尽にあったときに自分の代わりに正論で戦ってくれる大人だとか、失恋したときにもう一度恋に落とすくらい傍にいてくれる存在だとか、信頼を実感できる友人だとかそういう「そのときのヒーロー」なのだ。結局は過去の話をしながら内容が「そういうものがほしかったんだよね」という叶わなかった夢の報告になってしまうことが気持ち悪いのだろうと思う。

意識して「悲劇のヒロイン」になろうとしているんじゃないかと思う恐ろしさがあって、うまく悲しみだとか憤りを語れない。勿論語る必要なんてないのだけれど、なぜだか、突然誰かに話してみたくなることがあって、それは会話の中で思い出された記憶の痛みみたいなものをただわかって欲しいというだけなのだろうと思う。
痛みをわかってほしいはずなのに傷口は見られたくない、みたいな意識の矛盾がきっと罪悪感のような躊躇いを生むのだ。

と、分かったところで何が解決したわけでもないけれど。
ただ誰しも 知られたくない記憶に付随するわかって欲しい感情、というのはあるだろう。




3/03/2012

桜混じりヒスノイズ

最近はずっと誕生日に貰った念願のゲーム機(PSP)で遊んでいる。
ペルソナ3というゲームをやっていて、これは学園生活を送る主人公がある日特別な力を手に入れて夜な夜な闇の敵と戦うようになる、というありがちな設定のRPG?だ。
敵と戦う以外、昼間は普通に学園生活を送っていて、クラスメイトと仲間と恋に落ちたり、知らない誰かとであったりと日々誰かとの繋がりがあって非常に面白い。

ゲームとは言え、クラスメイトが自分を信頼して段々と深い相談をしてくれたり、何度か一緒に帰っていくうちに自分のことを意識しだす異性の仲間など、もっともっとこの人を知りたい、という現実の人間関係の如くグイグイ引き込まれる。一緒に戦う仲間が自分を気遣う発言をしたり、「俺達はさ」と言って仲間であることを意識させてきたりして、ああコイツラ仲良くていいなあと思う。

こういう(学園生活疑似体験的な)ゲームをしているとやっぱり、あああ青春っていいなあ!としみじみ思う。
自分の学生生活が充実していなかったわけではないがやっぱり、こういう日々も送ってみたかった。


でもやっぱり学生生活がすべて終わってしまって思うのは、もう特別な力を持って戦うことも、誰も知らない世界と現実を行き来する可能性も無くなってしまったんだなあということ。
『とある魔術の禁書目録』だとか、『フルメタルパニック!』みたいな。
そういった物語はいつだって高校生くらいまでが「主人公」で、幼さをバネにしたような正義感だとか強さだとかを持っていて、それでいて思春期特有の脆さがあって、一人では戦えない弱さがあって、仲間となら何でも倒せる無敵さがある。(少年漫画の王道だ)
あの頃はもしかしたら明日、って思う可能性としての楽しみが、空想があったけれど。
今はもう何にもなれないんだなあってちょっと寂しく思う。
もう遅すぎるのだ。

毎日が楽しくないわけじゃないけど、平凡に安心するようになって、何もかも捨ててどこかへ旅立つこともできなくなって、それが(現実に生きる)幸せだって分かっているけれど、やっぱり何処にも何にもなれなくて、自分は現実に生きていたんだなあと実感してしまって悲しい。
もっと世界を救う生き方の選択肢があってもよかったんじゃないだろうか。

ゲーム機の中で選択肢を選んで、キャラクタと会話して、ダンジョンを走る主人公を見ながら、もう大人になってしまったんだなあとぼんやり思う。




1/19/2012

高架エンドルフィン


そういえば23度目の冬なのに、何度か冬を失くしている気がする。

春と夏と秋と冬の数は一定のはずなのに、記憶の中で越えてきた季節の数が合わない。
思えば夏が多いような気もする。

越えてきた季節について思い出すとき、視覚的な記憶よりも「怠さ」のような感覚の方を先に思い出す。茹だるような暑い夏にベッドの上で流れる雲を見ながらぼうっとしてたこととか、秋の煙たいような晴れた日にぼんやり散歩した時の気候とか、真っ白な雪の中を憂鬱さを携えながら歩いていたこととか。ぱっと思いつく季節の記憶はいつも一人でどこか遠く(未来とか宇宙とか)を考えていたときで、おそらくそういう時は中身が空っぽだから季節の匂いや温度を覚えやすいのだろう。
多分片思いしてるときの季節なんて忘れてるのじゃないのかしらん。

記憶といえば、夢の中に突然昼間見た何気ない看板が出てきたり、食べ物が出てくることがあって、目が覚めたときに思い出して「あの時の記憶から引っ張り出してたのか…」と納得するときがある。覚えたいと思うことは中々覚えられないくせに、記憶というレコーダーは止まることを知らず予想外のものを記憶していたりする。
他人の夢を知らないが、自分は物凄く鮮やかな夢を見る。
夢の中で美味しいものを食べた幸福感や、空を飛ぶ浮遊感、美しいものを見たときの胸の震えるような感覚を目が覚めてもずっと覚えている。映像は色鮮やかで、朝焼けと夜明けが同時に始まる空を俯瞰で見たり、宇宙の中で火花のような星々を見たりと物凄く情報量も多い。
ストーリィもよく覚えている。自分ではない人間になったりもする。

夢の中が楽しすぎておそらくあちらにも自分の人生、というか魂の半分があるのだろうと思う。
現世では半分くらい魂が足りないので、そこをハードディスク化にしているのだ。
だから(無駄に)記憶している風景や感覚が多く、夢が鮮やかになるのだろう。
そういうことにしたい。

誰かと夢が共有できたらいいのに、と思うが
記憶だの夢だの感情だのというのは、不完全なくらいが丁度いいので(整合性のある夢というのもそれはそれで気持ち悪い)おそらく本人にもよくわからなくて、他人にとっては未知なくらいが距離感として丁度良いのではないかと思う。
自分だとか、他人だとかと付き合っていくための。

まあ恐らく、記憶だとか人生なんてものは、何回か季節を失っているくらいで丁度良いのだろう。