5/14/2013

ときめき ワン・ツー・フィニッシュ

きゅぅううううううん

あっこれあれじゃない
そうまちがいないあれよ

きゅぅううううう

この直に突き刺さるまろみ

ぅうううううううん

胸のざわめきが止まらない
あれはかわいいかわいいかわいいかわいい
わんちゃん
白い
わんちゃん
もふもふもふもふもふもふもふもふ
ちいさいわんちゃん
わんちゃん
もうまちがいないはしりだそう
これはビニール袋

12/20/2012

みっちゃんの話をしよう

いまだにみっちゃんのことが忘れられない。

話は小学校低学年時代まで戻る。
私は、小学4年生の夏休みが始まる前に転校してしまったので、これは転校する前の小学校でのお話である。

転校する前の小学校は小さな町の小さな小学校で学年全体でも40人いるかどうかだった。男女は多分半々くらい、1クラスは20人構成だったと思う。クラス替えは偶数学年のみ行われるから、1,2年のときは同じクラスのまま持ち上がりだった。もっとも4年生になるときには2クラス作るだけの人数がいなくなってしまって、35人くらいの1学級に纏まってしまったのだが。

その1,2年のときのクラスメイトにみっちゃんという女の子がいた。
雰囲気は『謎の彼女X』の謎の彼女(卜部 美琴)みたいな子だ。少し目が隠れるような前髪、肩につかないくらいのショートカット、それから猫みたいに細い目が印象的な子だった。
いつも本を読んでいるような大人しい子で、休み時間も活発に外に出て遊ぶような子ではなかった。私も本が好きだったから、図書館でよく会うことが多かったように思う。今まで十回くらい読み直した大好きなミヒャル・エンデの本、『モモ』もみっちゃんが読んでいたから、面白いのかな、と思って読み始めた。だから私にとってみっちゃんが特別であるのは、そういう切欠の持ち主だからという点もある。

話を進めよう。
私は休み時間はどちらかというと皆とワイワイやって外を走り回ったりして過ごす方だったので、みっちゃんとは特別親しかった(女の子の言う”同じグループ”というやつ)ではなかった。
しかし、私にとってみっちゃんは特別な女の子だった。

ある日、なんでかみっちゃんの家に遊びにいくことがあった。遊びに、といっても学校の帰りにたまたま何か用事があって立ち寄ったという方が近い。とにかく私はみっちゃんの家に行った。
みっちゃんの家は、和風の、畳が良く似合うお家だったと思う。おじゃまします、といって(この辺よく躾られている子だったのだ)あがって、居間に座って待っていると、みっちゃんは、「栄養をつけなきゃ」と言って生卵を飲みはじめたのだ。
これが衝撃的だった。
当時の私には「生卵を飲む」という文化がなかった。というか知識もなかった。そこで、卵を飲む、というのは何だかとても凄いことで、いうなればアロエの葉をすりおろして飲む、生姜を搾って飲む、といった高尚な知識のもとになされる医学的な行為、あるいは修行僧なんかが自分を高めるためにすることのように思えたのだ。生卵を飲む習慣のあるみっちゃん、がとても高いところにいる女の子のような気がした。私が驚いて「生卵、のむの」と聞くと、みっちゃんは「フフフ」と笑ってこくん、と生卵を飲み込んでいた。
それから、みっちゃんとおしゃべりをしていて、当時はやっていたポケモン(ゲームボーイでやるやつだ)を見せてくれるという話になった。当時、私はポケモン自体はカードやアニメで知っていたが、ゲームボーイは持っていなかった。ゲーム機に電源をいれて、ポケモンを戦わせるシーンを見せてくれた。
するとオトヒメ、という名前のポケモンが出てくる。
「これトサキント(金魚みたいなポケモンだ)じゃないの?」
と聞くと、みっちゃんは「うん、オトヒメって名前にしてるの」と答えた。
これも衝撃だった。
ポケモンの名前を変えてる!!公式で名前がちゃんとあるのに!しかもオトヒメなんて素敵な名前をつけてる!!
ワーみっちゃんめっちゃポケモン飼い慣らしてる!!!
そんなことを自然にやってしまうみっちゃんがとても大人に見えた。もうくらくらである。
生卵を飲む習慣があって、ポケモンの名前をさらりと自分のセンスで変えてしまうみっちゃん。
幼心にみっちゃんにある揺るがない何かに、私はすごく憧れていた。

みっちゃんのもつ揺るがない何か、は小学3年生になっても揺らぐことはなかった。
その頃には、みっちゃんがちょっと変わっている、というのはクラスでも周知の事実で、あるとき授業が始まる前に先生が「なにそれ、どうしたの」と頓狂な声を上げたことがあった。なんとみっちゃんは自分の机いっぱいに液体のりで水溜りを作っていたのだ。「どうなるのかな、と思って」とこともなげに答えたみっちゃんは、その液体のりの水溜りを横から見たり、机を傾けたりして楽しんでいたが、先生に「授業ができないでしょう」と言われ、渋々のりの水溜りを片付けていた。
クラスの端々では「みっちゃん何してるのー」「変なのー」という声がしていたが、私はそのみっちゃんの、「どうなるのかな、と思って」という言葉にくらくらしていた。
どうなるのかな、と思っただけでのりを机にべろべろべろーっと垂らしたわけである。
揺るがない。揺るがないというか、自由に飛びすぎである。
その自由すぎる発想と行動力に、みっちゃんはなんて素敵なんだろう、と思っていた。
(今でも時々その節はあるが、私は、発想が自分の想像のはるか外側にある人に、どきどきしてしまうところがあるのだ。)

残念ながらみっちゃんとはそれほど親しかったわけでもなく、当時は携帯なんてものもなかったから、小学4年生時の転校以来会ってもいないし連絡先も知らない。
それどころかみっちゃんの本名も思い出せない。

それでも未だに、小中高と過ごしてきて、みっちゃんほど素敵な女の子はいなかったと思う。


12/05/2012

どこかで聞いたようなデ・ジャヴュ

お菓子を作るときはいつも深夜だった。

大学の頃は寮に住んでいたからご飯時に共同キッチンを占領するなんてことはできず、休日の人のいない午後か、深夜によくケーキやクッキーを焼いていた。
どこかで部屋の扉が閉まる音や、遅く帰ってきた人たちがゆっくり階段を上るスリッパの音に、何か企みごとをしているような、甘い罪悪感のあるどきどきを抱えて、一人深夜、卵を泡立て、粉を計り、砂糖を舐めていた。
オーブンのタイマーがゆっくりと時を計る電熱の微かなジーっという音。
そうして皆が寝静まった暗い廊下に、窓辺からしみこんだ冬の冷気みたいに広がってゆく甘い焼きたての香りが私はとても好きだった。

一人暮らしをするようになった今も、お菓子を作るのは深夜だ。
今ではもう2時や3時に作ることはないけれど、やっぱり夜11時くらいから作り始めていることが多い。
多分、あの深夜の孤独感が、お菓子を作るのにちょうどいいのだと思う。
プレゼントを隠しているような悪戯心のようなどきどきとか、独り占めしている甘い香りだとか、そういったものの素敵さが好きなのだ。

できあがった焼き立てのお菓子を少し味見していると、だいたい作る前に思い悩んでいた灰色はふわーっと薄れていく。
何かに迷ったり、とくに可能性としての不安に悩んでいるときはお菓子を作るに限る。
バターを切ったり、砂糖を計ったりして、ボールの中でかしゃかしゃと泡立てているとき、どうすればよいかわからないような不安や情けなさみたいなものが、ぽろぽろ表れてくる。なんだか泣き出したいような気持ちで白くもったりするまで混ぜる、というレシピの言葉を思い出しては、かしゃかしゃ泡だて器を回す。
だれかに言ってしまったらなんでもないことになって終わるのかな、なんてぼんやり思いながら、身体はきちんとお菓子作りをしている。粉をふるったり、ゴムべらでサックリ混ぜたりしているうちに、多分このままこうやってぼんやり悩んでいることは杞憂で結局のところなるようにしかならんのだろうな、と思う。
温まったオーブンをあけて、ケーキ型を入れて、タイマーをもう一度回す。
そこからゆっくりと、穏やかなカウントダウンだ。
焦げ過ぎないように、とそわそわしながら、少しその場を離れて読みかけた本などをとりに行く。
カウントダウンも半分もすぎれば、甘い香りが漂い始める。
この頃にはさっきまでの灰色の気持ちはすっと霞み始める。

深夜には大きすぎるチン、という音が鳴ると、お菓子の完成だ。
一人で食べるには少し多すぎる量の、パウンドケーキやチョコケーキ、タルトやパイが焼きあがる。

焼きたてのチョコケーキはこんなに甘い、なんて知らないだろうな。
少し熱いカスタードがチェリータルトによく合うことや、パウンドケーキの温かいバターが優しく舌にしみこむことを。

誰も知らなければ良い。



11/13/2012

ゴーギャンもきっと同じことを考えていた

私が人間というのは、キャベツ畑からぽこんと生えてきたりど、こからともなくコウノトリが運んだりしてくるのではなく、精子と卵子が接合、受精して生まれるということを知ったのは6歳の頃だったと思う。
本が好きな子どもだったから、マンガで学ぶ人間のしくみ、みたいな本も沢山読んでいた。
ただ、そのころは受精で子どもが出来ること、精子は男性が、卵子は女性が保有しているということを知っているだけだったので、おそらく受精とは、精子が空中を漂って、卵殻へたどり着くのだろうと思っていた。
なんでお父さんとお母さんがハッキリしているのかわからなかったが、そこは何か、愛みたいなモヤモヤっとした事情が上手く采配しているんだろうと思った。
分からないことを親に聞くタイプの子ではなかったので、そういうことで納得していた。

ところで、(生殖行為を目的とせず)無駄に精液を出すことを「殺す」なんて揶揄している話はよく聞くけれど、女性の生理について、殺すとはいわないよなと思った。

ということは、魂は精液に宿ると考えられているのだろうか。

死んだら魂はどこへ行くのか、というのはもう手垢にまみれた議題だろうけど、魂はどこからやってくるのかについてはあまり聞かない。

生命の始まりというか、胎児が人として扱われ始めるのはいつなのか、という話は医学や法学では充分討論されてきた分野だけれど、じゃあある地点から人として生命個体として認識されるとして、そこに宿った魂はどこから来ているのだろうか、という文学的な解釈は一体どうなっているんだろう。

もし精液に魂が宿っていた場合、勿論男性(雄)の魂の一部が削り取られているのだろうか。
腹上死ってもしかして持っていかれすぎた結果なのか。

とういうようなことを考えながら恩田陸さんの『不連続の世界』を読んでいたら、

「精子はあくまでもスイッチであって、それ以外のもんは全部女だけでまかなえるってことだね。クローンなんかは、電気的な刺激を細胞に与えるだけで、あれだけの個体が出来ちゃうわけだし」
「ゲーッ。そのうちほんとに、男なんか必要じゃなくなるってことか」
などと書いてあり、スイッチの真偽のほどはトモカク、精子がなくても生命が誕生するのは事実なので、おそらく魂は別の場所に宿っているか、あるいは別の場所にも宿っているらしかった。
もちろん、クローンに魂が宿っていない可能性もある。
しかし、この話はもはや魂が一体何なのかという話に繋がるのでやめておく。

とすると、卵に魂が宿るということなのだろうか。
排卵って魂を削り取ることだったんだろうか。しかしそうすると、排卵の時点で生命が誕生するほうが理にかなっているような気もするが。
あれ、精子の役目って一体何なんだろう…

疲れてきた。

これが
我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々は何処へ行くのか
ということか…

11/04/2012

ジンテーゼのロック

温かい紅茶に垂らしたブランデーが心地良い。
少し未来の話をした昨日のことを、思い出していた。

どうにも未来への見方が幼すぎる気がするけれど、どうにも5年以上先を見越して動くようなことができない。精神論で片付く問題ではないのだが。

未来の不確実性というか、あまりにも描く未来が都合のよい前提条件によって成り立っているような気がして怖い。多分心のどこかで、身近な人たちが死ぬ可能性というものをずっと予測している(やがてくる悲しみに備えて)

そもそも大体、自分の人生について振り返ると「なるようにしかならない」という感想ばかり聞く。
まぁそれは決して事前に悟って諦めるための言葉ではないとは思うけれども。

とりあえず現状に満足していないなら考えて悩むよりも、何か、そのためにと考えて動いたほうが有意義。結果的に有意義なのかは別として、不安潰しにはなるよな、というのが最近の行動理念かしら。

どこぞの専門学校のCMみたく「じゃあ僕はxxxになるよ!」とはりきって言えるほど生きていく手段に対して強い意志はないのだ

酔いが醒めるまで少し起きていよう

10/09/2012

これから始まる、希望という名の未来を

リトバスを一通り終えて、(自分の昔を振り返って思ったのは)、やっぱり、差し伸べられる手を掴む、って体験はきっと何かの始まりになるのだなぁということでした。

6/14/2012

始まり始めた初夏の夏



生きてきた時間を海風に流した。

どこからか聞こえてくる雨音はきっと耳に残る竹林のざわめきであろう。
天国に行くのに必要なのは小指の骨だけである。
右なのか左なのかわからないが、とりあえず僕は小指の骨だけを残し、その他の総てを燃やした。これだけ人類が進化して、文明が発達したのに未だに人間はよく燃える。時折パキパキと骨にしみこんだ記憶が折れる音がしたが、それはよく燃えた。我ながら心臓が燃え尽きたときは初恋を失ったときのような寂しさと切なさがあった。

心なんてものがなければよかった、と最後から二番目の恋人が囁いていたのを覚えている。夜を思い出させる名前だったと思うがはっきりとは思い出せない。とても頭が良くて、美しい人だった。夜、僕が眠ったのを確かめてからそっと僕の横で弱みを呟くのが癖だった。その度にまどろみの中で僕は彼女が泣いている夢を見ていた。さよならと別れたときにふと思ったのはもし彼女が僕が起きているときに弱みを零してくれたら未来は変わったのだろうか、ということだった。
それでも彼女にあったのはダレカに零したい弱みであって、支えてもらわなくては生きていけない弱さではなかったのだろう。

実際のところ心なんてものがあったのかは知らない。

許さなくてはいけない、と彼方から声がする。
我々の人生は選択の連続だと言っていた。
選んで掴んできたか、選んで捨ててきたかの違いで人の目線は分かる、と彼は言った。私は選んで捨ててきた、と言った。
生死を決めるのは魂の所在であり、彼の目線で見る世界では動いている死体というものが存在していた。魂が体ではないところにある人々が多すぎる、と嘆いていた。
もう既に死んだ男の話だ。

実際のところ、魂なんてものがあったのかは知らない。

ヘルタースケルターと地獄は関係がないということに気付くのに7年も掛かった。
7年は長い。
7年あれば何ができただろうか。

長い道のりだったと思う。
耳の奥で反響し続けている雨音のような竹林のざわめきが五月蝿い。
生きてきて良かったと思う。
目を閉じればピーコックブルーの空が広がっている。
海風にのって遥か南を目指す僕の骨灰はきっと数キロ先で海に落ちるだろう。それでもそれに気付かないふりをして遠く南へ辿りつくのだと思っていたい。僕は自らの意思で、ヘルタースケルターと地獄に何の関係もないということに7年間気付かないでいたかったのだ。
じきにここにも夏が来るだろう。

あとしばらく小指は残しておかなければならない。
そう、天国にいくためには……

4/30/2012

エスカレーター・ペスカトーレ


三軒隣の子猫が遊びに来るようになって今日で六日目となった。
昨日は付き合って二年経つ彼女と郊外のショッピングモールへ出かけて、なにやら沢山お買い物していた彼女は今もまだベッドの中で惰眠を貪っている。青いふかふかのマクラにうねうねと広がる髪の毛は気味の悪いイカスミパスタのようで、そういえばそろそろ十三時になるなと僕は思い出す。
気味の悪くないイカスミパスタなんて無いんじゃないかな。

そういえば昨日のショッピングモールにあったむやみやたらに長いエスカレーターで僕に背を向けながら彼女が呟いたわたしがほんとうはケースオフィサだったらどうするが忘れられないでもすぐに忘れたい。
日曜日に相応しいカラっと晴れた青空の下で、さっき干したばかりの二枚のバスタオルが風に揺れている。
足元でじゃれつく子猫を裏返しながら、彼女はいったいいつ起きてくるのだろうかとぼんやり考えた。
昨日はだいぶはしゃいでたみたいだし。
でも、
僕の腕の中でだいすきだいすき言ってるよりも、僕だけにしか見せない表情があることよりも、こうして僕が起きているところで彼女が寝ているという瞬間が一番、彼女が自分のものになっている気がする。
下りエスカレーターで僕より一段下で背を向けながら楽しそうに喋っている時とかね。
きっと、アッいま僕は彼女をこんなに簡単にころせるのだ、という瞬間にころさないでいるっていうのが愛だと思うのよね僕の。僕が僕の彼女への愛を感じる瞬間の。
実際のところ、彼女が僕をいつか嫌いになるんじゃないかとか、本当は彼女の愛は醒めてるんじゃないかって不安よりも、自分がいつか彼女を嫌いになるんじゃないかとか、本当に彼女を好きなのかってことの方が怖かったりする。何か食べたいと思うのはおなかが空いているからだし、どうにも眠いのは睡眠が足りていないからだけど、何かを好きになることにハッキリとした原因はない。綺麗だとか、嫌いだとか思うことの原因が曖昧でも意外と生きていけるってことは僕ら、15歳くらいまでに分かることだけど、20歳くらいになってくると好きってことの原因が曖昧だとちょっと怖くなってくるんだよね。
もしかしたら生きていけないかも、なんて思い始めちゃったりする。
だから基盤がグラグラでも「あーやっぱ好きだ!めっちゃ好きだ!大丈夫!」ってゴリゴリ上書されちゃうような自分を信じられる瞬間があると安心するんじゃないかな。やっぱり僕は定期的にエスカレーターで彼女の後ろに立って、自分の彼女への愛を確かめていこう。

頂上からだいぶずり落ちてきたらしい昼の太陽が直接ベッドに挿し込んでくるようになって、ようやく彼女が「ううぅん」とかなんとか言いながらベッドの中でもぞもぞしだした。
僕は足元の子猫を表返しにしてぱふぱふ叩いてしゃんとさせる。子猫は思い出したように三軒隣を目指してヨテテテと帰っていった。僕もぐっと伸びをして身体をしゃんとさせる。それから、未だモヌモヌ言っている彼女の元に戻る。
「もう昼だよ」
ベッドに腰掛けて、彼女の長い髪に指を入れ、梳くと、光に晒されて眩しそうにも未だ眠そうにも見える表情が見えた。
「いまなんじ?」
もう昼の二時、と答えながら彼女の頬を撫でる。彼女がくすぐったそうに笑った。
「あかんあかん、おきないと」
そう言いながら僕をベッドの中に引き摺りこもうとする。
横になってみると思いのほか直射日光が眩しくて、ベッドは暑くて、でも彼女がこんなにくっついてきているし悪くは無いかなと思う。好きだし。

日曜日に相応しいカラっと晴れた青空は遠く、部屋に入ってくる涼風がカレンダーより初早い夏の訪れを感じさせていた。
こんな日々がずっと続いていけばいいな、とぼんやり思った。





4/16/2012

孤独が脊椎に宿ることを君は知らない



きっとなんだか捉えたい感覚というのがあって、そういうものを探すために色々音楽を聴いてみて悲しいとか寂しいとか恋しいとかそういう感覚を探してみるけど、大体どれもしっくりこなくてモゾモゾした居心地の悪さが残る。
相手だってわかってるけど別れ際にまた会おうって言い忘れたな、みたいな心残り。

一人でとぼとぼ帰り道を歩いていたり電車に乗っていたりすると「そうだそうだ」みたいな感じで言葉がどんどん溢れてくるのに、それをフィクションだって良いから残そうと思って白紙を目の前にした瞬間に、何も思い浮かばなくなる。マイナスの感情とか悩みなら忘れた儘で良いじゃん、とも思うけれど、自分としてはこういう頭の中で小説の一節のようにふと浮かぶ感覚をアイデンティティの一つだと思っていたいのだ。
もしも私が芸術家なら作風になっていただろうなという感覚。

「A型なの?私B型だから輸血できないね」という何気ない会話に感じる理不尽な罪悪感というか寂しさだとか、目の前の連れが喫茶店でアイスコーヒーにミルクを入れてすぐにかき混ぜてしまう所を見たときの(ああ、違う。)というパズルピースが嵌らない感じだとか(私はアイスコーヒーの中をミルクがしゅるしゅる踊るように溶けていく様を見ているのが好きなのだ)、誰かと話しながらだんだんその人の話が自分からどんどん遠ざかっていく虚ろさだとか、
そういうものを感じた瞬間。
その瞬間にだいたい、ふわっと思考が飛んで何か掴んでいる。

そうだな、いつも寝ているベッドのシーツを整えようとシーツの端を掴んでふわっとさせたときの、あのシーツが空中で波打ち、その下を空気が流れて、やがてシーツが重力にしたがって落ちてきて、ベッドの上に少し乱れて着地する、そんな感じだ。
そんな感じの隙間だとかズレが心の中で起こる。
ふわっと、空気みたいなのがするっと抜けて、ズレる。

なんだろうなあ。
これが一人の人間に一つの命しか宿らない孤独なのかしら。

3/27/2012

揮発性メメントモリ


例えば美しい油絵も近づけば絵具の羅列でしかなくて、更に近づいてその本質を探ろうとすればそこにあるのはもはや絵ではなくただの顔料と乾性油でしかない。

本質を探るときに徐々に失われていくのは感性である、というお話。

毎日を生きていくに当って、悲しいことだとか嬉しいことだとか辛いことだとかというのは唐突にやってきて、しかも確実に影響を与えて去っていく。ちょっとした知らせが奪っていく心の平穏だとか、つもり積もった虚しさの所在だとか、そういうものに火曜日とか水曜日に気付いてしまったりして、不味いな、と思う。
24時間は止まってくれない。
とりあえず、と思い直す。とりあえずこの悲しみだとか辛さだとかというものは週末にまとめて感じよう、と考える。平日にそういったことに心を囚われていては多分まだまだ残っている明日明後日明々後日が過ごせない、そういうことが分かっているのだ。

悲しいことがあると、どうして悲しいんだろうと考える。
原因に思い当たる。
何故自分にとっては悲しいのか(果たして他の人にとっては悲しくない事柄なのだろうか)
そうやって粒さに本質を探っていって原因が見えたところで
よし、この問題は全部わかったぞ、後でゆっくり余韻に浸ろう。
みたいな気持ちでやり過ごす。
ヤヤコシイ感情は全部隅においやって、とりあえずやるべきことをやらねばならぬのだ。

そうやって果敢な研究者みたいな平日を過ごして、日曜日になってみるとまるでその時の悲しみが思い出せないのだ。悲しかっただとか辛かったという事実だけは覚えていて、カサブタになってしまった傷の痛みが思い出せないように、妙に気になる跡ばかりなぞる羽目になる。そうだ、確かここを怪我したときは痛かったということは思い出せるのにもう一度その痛みで泣くことはできない。
何故悲しかったのか、何が自分を辛く思わせる原因になっていたかはハッキリしていて、きちんと説明もできるのに、どれだけその過程をなぞっても気持ちは空っぽのままで、いやに晴れた日曜日だなあとかそういうことが次第に心を浸食し始めて、まあいっか、と悲しみだとか辛さは心の隅で蒸発していく。


面白かったことも楽しかったことも、その場で誰かに言わないと、どんどん色褪せていく。
2週間くらいしてから「ねえそういえば、」といった感じで話し始めた途端に物凄くその事柄が詰まらない、なんでもない日常に思えてきて誰より一番自分が興醒めしていることに気付く。

感情はナマモノだから、とかなんとか言った台詞がどこかにあったような気もするが、腐るというよりはどんどん蒸発していってしまうイメージである。
乾いた跡だけがのこって「そうここに水があったのさ」なんていったところでそれは事実の一つでしかなく、「だからどうした」という自問に潰されてしまう。


そうして日々を過ごしていくことは結構賢いことなんだろうな、とも思う。(悲しみだとか辛さってものに対しては)
コミュニケーションスキルだとかストレスコントロールだとかありきたりな処世術がどこかで評価されていて、要はどれだけ毎日を上手くかわしていくかということが長く生きるためには必要なのだろう。
ただ、なんとなくそうやって乾いて残って汚れた跡を割り切って過ごすというか
どうにも自分には上手く忘れられないというか、
「あああの時泣いておけば良かったんじゃないか」という涙の勿体無さというか
優等生も100点を誇らしげに自慢してもよかったんじゃないかな
みたいな
アタリマエだけどアタリマエじゃなかった頃もあったはずだよなあ
といった
成長に対する寂寞がいつまでたっても離れない。

でもこうやって幼い感覚だとか感情の制御の効かなさみたいなものを惜しむのは、きっとこういうものを失って自分よりもずっとずっと若くて幼い子供の気持ちが段々分からなくなるんじゃないかという不安があるからなのかもな、と思う。
どんどん分からなくなって、自分が子供だったこともいつか忘れてしまいそうな気がしていて少し こわい。






3/04/2012

永遠に続く魔法の粉砕と有限の現実の共有


昔のことを語るときに、特に悲しかったことだとか憤りを感じたことだとかを話すときに罪悪感のような躊躇いがある。

小さい頃小学校でこんな理不尽にあったとか、親がこんなことを言ってきて悲しかったとか、大抵の人はひとつくらいあるだろう。失恋でもいいし、友達との喧嘩でもいいけれど、多分自分はそんなに悪くなかったんじゃないかなと思うことで傷ついた体験。
ふとした会話の中で思い出して、そうそうそういえば、と語り始めて言葉が口から漏れ出した途端にそのストーリィは途端に小石の混ざったハンバーグとでもいうのか、ザラついた「言わなきゃ良かった」に変わる。
幼い頃の感情を改めて客観的にみて、本当に自分が被害者だったのかよく分からなくなるからかもしれない。今更何の関係もない時間軸の違う相手に話したところで何になるだろうという虚しさがあるからかもしれない。
語りながら自分は一体何を伝えたかったのか、自分でもこんなこと口にして思い出したくなかったなんて思いながらザラザラザラザラ不快感だけを舌に残して言葉は零れていく。
「わかるよ」という。「私もあった」と同情する。誰かと似たような体験をしていることは多々ある。限りなく共感出来ている、と思うこともある。そうやって理解してもらえることが嬉しくもある。
それでもただ本当に欲しかったのは、理不尽にあったときに自分の代わりに正論で戦ってくれる大人だとか、失恋したときにもう一度恋に落とすくらい傍にいてくれる存在だとか、信頼を実感できる友人だとかそういう「そのときのヒーロー」なのだ。結局は過去の話をしながら内容が「そういうものがほしかったんだよね」という叶わなかった夢の報告になってしまうことが気持ち悪いのだろうと思う。

意識して「悲劇のヒロイン」になろうとしているんじゃないかと思う恐ろしさがあって、うまく悲しみだとか憤りを語れない。勿論語る必要なんてないのだけれど、なぜだか、突然誰かに話してみたくなることがあって、それは会話の中で思い出された記憶の痛みみたいなものをただわかって欲しいというだけなのだろうと思う。
痛みをわかってほしいはずなのに傷口は見られたくない、みたいな意識の矛盾がきっと罪悪感のような躊躇いを生むのだ。

と、分かったところで何が解決したわけでもないけれど。
ただ誰しも 知られたくない記憶に付随するわかって欲しい感情、というのはあるだろう。




3/03/2012

桜混じりヒスノイズ

最近はずっと誕生日に貰った念願のゲーム機(PSP)で遊んでいる。
ペルソナ3というゲームをやっていて、これは学園生活を送る主人公がある日特別な力を手に入れて夜な夜な闇の敵と戦うようになる、というありがちな設定のRPG?だ。
敵と戦う以外、昼間は普通に学園生活を送っていて、クラスメイトと仲間と恋に落ちたり、知らない誰かとであったりと日々誰かとの繋がりがあって非常に面白い。

ゲームとは言え、クラスメイトが自分を信頼して段々と深い相談をしてくれたり、何度か一緒に帰っていくうちに自分のことを意識しだす異性の仲間など、もっともっとこの人を知りたい、という現実の人間関係の如くグイグイ引き込まれる。一緒に戦う仲間が自分を気遣う発言をしたり、「俺達はさ」と言って仲間であることを意識させてきたりして、ああコイツラ仲良くていいなあと思う。

こういう(学園生活疑似体験的な)ゲームをしているとやっぱり、あああ青春っていいなあ!としみじみ思う。
自分の学生生活が充実していなかったわけではないがやっぱり、こういう日々も送ってみたかった。


でもやっぱり学生生活がすべて終わってしまって思うのは、もう特別な力を持って戦うことも、誰も知らない世界と現実を行き来する可能性も無くなってしまったんだなあということ。
『とある魔術の禁書目録』だとか、『フルメタルパニック!』みたいな。
そういった物語はいつだって高校生くらいまでが「主人公」で、幼さをバネにしたような正義感だとか強さだとかを持っていて、それでいて思春期特有の脆さがあって、一人では戦えない弱さがあって、仲間となら何でも倒せる無敵さがある。(少年漫画の王道だ)
あの頃はもしかしたら明日、って思う可能性としての楽しみが、空想があったけれど。
今はもう何にもなれないんだなあってちょっと寂しく思う。
もう遅すぎるのだ。

毎日が楽しくないわけじゃないけど、平凡に安心するようになって、何もかも捨ててどこかへ旅立つこともできなくなって、それが(現実に生きる)幸せだって分かっているけれど、やっぱり何処にも何にもなれなくて、自分は現実に生きていたんだなあと実感してしまって悲しい。
もっと世界を救う生き方の選択肢があってもよかったんじゃないだろうか。

ゲーム機の中で選択肢を選んで、キャラクタと会話して、ダンジョンを走る主人公を見ながら、もう大人になってしまったんだなあとぼんやり思う。




1/19/2012

高架エンドルフィン


そういえば23度目の冬なのに、何度か冬を失くしている気がする。

春と夏と秋と冬の数は一定のはずなのに、記憶の中で越えてきた季節の数が合わない。
思えば夏が多いような気もする。

越えてきた季節について思い出すとき、視覚的な記憶よりも「怠さ」のような感覚の方を先に思い出す。茹だるような暑い夏にベッドの上で流れる雲を見ながらぼうっとしてたこととか、秋の煙たいような晴れた日にぼんやり散歩した時の気候とか、真っ白な雪の中を憂鬱さを携えながら歩いていたこととか。ぱっと思いつく季節の記憶はいつも一人でどこか遠く(未来とか宇宙とか)を考えていたときで、おそらくそういう時は中身が空っぽだから季節の匂いや温度を覚えやすいのだろう。
多分片思いしてるときの季節なんて忘れてるのじゃないのかしらん。

記憶といえば、夢の中に突然昼間見た何気ない看板が出てきたり、食べ物が出てくることがあって、目が覚めたときに思い出して「あの時の記憶から引っ張り出してたのか…」と納得するときがある。覚えたいと思うことは中々覚えられないくせに、記憶というレコーダーは止まることを知らず予想外のものを記憶していたりする。
他人の夢を知らないが、自分は物凄く鮮やかな夢を見る。
夢の中で美味しいものを食べた幸福感や、空を飛ぶ浮遊感、美しいものを見たときの胸の震えるような感覚を目が覚めてもずっと覚えている。映像は色鮮やかで、朝焼けと夜明けが同時に始まる空を俯瞰で見たり、宇宙の中で火花のような星々を見たりと物凄く情報量も多い。
ストーリィもよく覚えている。自分ではない人間になったりもする。

夢の中が楽しすぎておそらくあちらにも自分の人生、というか魂の半分があるのだろうと思う。
現世では半分くらい魂が足りないので、そこをハードディスク化にしているのだ。
だから(無駄に)記憶している風景や感覚が多く、夢が鮮やかになるのだろう。
そういうことにしたい。

誰かと夢が共有できたらいいのに、と思うが
記憶だの夢だの感情だのというのは、不完全なくらいが丁度いいので(整合性のある夢というのもそれはそれで気持ち悪い)おそらく本人にもよくわからなくて、他人にとっては未知なくらいが距離感として丁度良いのではないかと思う。
自分だとか、他人だとかと付き合っていくための。

まあ恐らく、記憶だとか人生なんてものは、何回か季節を失っているくらいで丁度良いのだろう。













12/21/2011

融雪の銀



あの角を曲がったら悲しみ始めようと思った。

ポケットに突っ込んだ手はじっとりと温く蒸れていて、時折びゅうと吹く北風が耳を凍らせる。
呼吸するたび僅かにマフラーに覆われた口元が温かくなる。
目線を上げて、遠く続く街路樹を眺めた。
もう殆ど見えなくなった。
今は幽かに眼球の霞みと紛う程度の銀がちらつく程度だ。

いつの頃からかは分からないが、私の見る世界にはいつも光や影とは無関係に銀色の小さな光が舞っていた。それが他人には見えないものであるということに何の違和感も、孤独感も感じなかったから、きっと後天的なものだったのだろうと思う。妖精というほど夢物語じみた意思疎通も、生物らしさもなく、ただ古びた白黒映画のフィルムに混じるノイズのように、自分の視界には銀色の光が混ざっていた。春の終わりにはまるで桜が煌いているかのように、澄んだ夜には星が増えたかのように銀色はそこにあった。季節に輝きを与える美しいと思ったし、この景色を誰かと共有できないことを少し惜しくも思った。そして私以外の人はこの景色よりも少しクリアな景色を見ているのかと哀愁に耽った。
あの頃、私の世界では常に銀の雪が降っていた。

足元から伝う冷気に侵される気がして歩みを速める。
夕刻に降った霙雨の跡がそこかしこに残っている。天気予報では今夜は雪だと言っていた。
きっと家に帰れば恋人が温かなシチューを作っていることだろう。
ただいま、といえば出来るだけ優しい声でおかえりと言ってくれるはずだ。野菜を煮込んだとろけるようなミルクの香りが部屋に漂っていて、ご飯の炊けるふつふつという音がして、きっと私はこれから、そういう幸福をずっと続けていくのだ。
そしてやがて銀の雪は見えなくなってしまうだろう。
気付いていた。
恋の幸福に身を落とすほどこの雪は溶けていくのだと。


愛してるという言葉を何度聞いただろう。
ベッドの中で、何気ない空気の中で、恥かしそうに、耳元で、目を見て、確かめ合うように、聞いてきた。
その度にきっと少しずつ私の世界に降る銀雪は溶かされていたに違いない。
心が満たされていく中で少しずつ私は自分自身も失われていく気がしていた。
満たされていくたびに重くなっていく身体。
そして減っていく銀の雪。
多分私は平凡に溺れることを恐れていた。
どこかに運命と呼べるような選択があるような気がしていた。


ずっとずっと、クローゼットの奥に繋がる亡国も、選ばれた存在になることも、私だけが持つ力も、突出した才能も、宇宙人が来ることも、科学戦争が起こることもなく、昨日予想した明日が続いていくことがどうしようもなく怖かったのだ。そうして想定内の日々を日常と呼び、誰かが生きたような人生を歩む平凡さが恐ろしくて仕方なかったのだ。
生命を賭けて切り開くだけの運命が無いことが、惨めに思えていた。
自分だけは殺されないと信じて幼い日々を過ごすように、私は自分だけは主人公となるような人生を歩むと信じていたのだ。
私の世界にだけ降り注ぐ銀の雪が、他人にとってどれほどの奇跡に見えたのかは知らない。
ただ私は、私の望む奇跡と運命に選ばれたかったのだ。



やがて予測された明日の連続はやがて平凡から安心へと変わっていった。

子供の頃に必死に手を伸ばしても届かなかった沢山の事柄が、いとも簡単に自分の手の中に入るようになっていった。知らなかった感覚と背負いたくも無い責任と消えてゆく逡巡が自分を変えていく気がしていた。そうして、ただ時間だけが努力を見捨てて自分の限界を壊していくことが少し虚しかった。それが成長ということなのだと、幼さを置いていくことなのだと分かっていながら止めることはできなかった。時の流れに身を削られて、そうして生命を賭けるほどの運命に出会わないまま、生命の重みだけが増していった。
此処に在らずだった自我は何処へも行けなくなって死に場所を決めた。
温かな場所。
愛してるの言葉でどんどん縛られていく、幸せな場所。

多分誰からも愛されていなければ、人間ではなく運命に愛されていれば私のこの世界はきっと、吹き荒ぶ美しい銀の冬を迎えていたのかもしれない。

なのに恋に落ちるたびにこんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
あの瞬間、あの瞬間はずっと、平凡さを望んでいたのた。
あの瞬間、あの瞬間にきっと、雪は融け始めていたのだ。
どんどん年を重ねることに、視界はクリアになってゆく。目に映る景色は鮮やかになっていく。
あんなにも眩しかった世界。

ようやく君にも春が来たね、
と笑っていた友人のあの言葉は私にとって長く続くはずだった美しい冬の最初の終わりを告げる言葉だった。

何度も春がきて、恋をして、夏がきて、恋をして、秋がきて、冬がきて
春がきて、春がきて、春がきて、
そして幾星霜の
春が。
永い恋が。

私はもう何処へも行けない。亡国にも科学戦争にも異星にも行かないのだ。
自分の手の中から失われていく異次元の輝きがもうこれ以上、どんなドラマチックも選べないことを証明していた。
顔をあげれば、幼い頃よりもずっとずっと遠くまで見える世界。
そうして映る色鮮やか過ぎる世界は悲しむには少し騒々しかった。

この角を曲がり、そうして次の交差点を渡ればもう家だ。
君に会えるだろう。

これから続く永い春の前の最後の冬が沁みる。

11/27/2011

接続詞のバラードⅠ

そういえば、と言うには遅すぎた
光化学スモッグについて話している時間を
今すぐ消せればそういえばに間に合うかもしれないが
あなたは百メートル先の霞むテールランプに夢中

やり直せないのは人間関係ばかりではない
疑似餌に釣られた魚はエビに釣られた魚よりも馬鹿なのか
捌いてみれば分かることだ
むしろ捌いてみるしか方法はない
ア・ポステリオリな白身魚達

近付くにつれてテールランプへの関心は強くなる
そういえばが遠ざかってゆく

好きだと言ってみてもお互い承知で
時間を止めることくらいしかできない
あなたの靴音がやけに耳に障る

後ろから見守っているふりをして
僕は先ほどから白身魚について考えていた
もうテールランプはいいのか
有効期限切れのそういえばがついさっき死んだ



11/10/2011

秋槻君と水溶性の彼女

秋槻君が彼女の横島さんと別れてからとても悲しんでいる。
この場合の別れというのは男女の価値観の違いなんかで恋人同士をやめるという事ではなくて、もっとシンプルなさよならという意味だ。
秋槻君が恋人とさよならしてからとても悲しんでいるのだ。

そもそも横島さんが水溶性だったことがこの悲しみの原因なのだ。

横島さんは水溶性だった。
横島さんはなるべくしてなったように美術部部長という役職がぴったりくる風貌のひとで、絵は飛びぬけて上手いというわけでもなかったけれど、日の当たる美術室で冷たくない素顔で絵を描いているのがとても印象的で、美術部員達はそういう風景を気に入っていた。
その横島さんが、キスをしたとたんに舌先から溶けていったというのだから美術部員達は驚いた。
もちろん一番驚いたのが秋槻君だったことは言うまでもない。

秋槻君が横島さんの腰に手を回して、胸と胸が触れ合ってしまうくらい近い距離まで近づいて、少しミルクの匂いのする横島さんの唇に秋槻くんはそっと触れて、それからキスをした。初めはお互いの唇の弾力を確かめるような些細なキスだったのに、体の接合を確かめるようなキスになって、とうとう秋槻君の舌が横島さんのミルクの匂いのする唇を割って入り、てろてろする舌に触れて、そのまま絡ませていたというのに、横島さんの舌は絡まったまま抵抗が消えていくので、秋槻君は不思議に思ってキスを解いた。

横島さんの舌は溶けていたのだ。

あっあっといいながら横島さんの口元はするするすると蜜が零れるように溶けていき、床には少し粘性のある透明な液体が溜まっていく。
あっぁつといいながら横島さんの目元に涙がたまったりして今度は頬のあたりがてろてろと溶けていって、秋槻君は気付いていなかったけれど太ももあたりだってとろとろに溶けていた。
そうやって横島さんがあっあっといっていくうちに横島さんの体はもうとろとろのてろてろになっていて秋槻君が抱きしめたってふやふやになってしまって、そうして三日月が沈む頃にはすっかり全部液体になってしまったのだ。

この場合、秋槻君は失恋したのかな。

兎に角横島さんはつまり、秋槻くんの唾液がじわじわ染みていって更には涙やら何やらで溶けてしまったというのだ。

なんと言う悲劇!

そういう事で秋槻君は彼女の横島さんを失って悲しみに暮れているし、美術部員達はいつもの風景がすこしばかり物足りないことに寂しさを感じているのだ。

期末テストが近づいていたが、悲しみや寂しさの前にはそんなもの無意味だった。

横島さんがいなくなったことで多くの人が涙を流していたが(秋槻君もその一人だ)誰一人として溶けたりしなかった。

そうして今でも美術準備室の床では染み付いた油絵の具や石膏の粉に混じって液体の横島さんが溜まりを作っている。

やがて、空気が澄んで空はからりと乾き、冷え込むようになった朝、液体の横島さんが静かにそこで小さな霜を作っているのを見て、秋槻君はまた恋が出来そうな気がしている。

冬になったら、また恋が出来そうな予感がしている。

指先で触れると瞬く間に溶けていく小さな霜に、抱きしめるのは難しいかな、と
少し困ったように笑っている。

秋槻君の彼女は水溶性である。


10/19/2011

より不確かな未来

君はどこに向かって生きているの?

と随分前に友人に問われて、言葉が胸を貫くように刺さって、刺さった所からじわじわと体が冷えていくのを感じた。冷たい窓に触れて体温が奪われていく掌のような、心臓に遠いところから冷えていく感覚。

傷付いたわけではない。
ただ、生きることとそして向かう先と、それが現在と未来ってもので結ばれているものだということを改めて思い出した。というか、忘れていたことに気付いた。

私はどこへ向かって生きているのだろうか。

よく言っているが、叶えたかった願いは20歳になるまでに大体叶った。
その時あったのは漠然と「あとは消耗戦になるだろう」という諦めにも似た人生観だった。
人と分かり合えることだとか、分かり合えないことだとか、辛苦だとか幸福だとか、
そういったものに対して自分なりの価値観ができて、世間や人との摩擦に対してそれほど火傷することもなくなってきたと思う。言ってみれば「うまく諦めることが出来る」ようになった。
自分の人生が自分の思い通りに行くなんてことは、海の真ん中で自由に泳げると信じているようなもので、引力と他の生命体がある限り、思うが儘になんてならないのだ。

そういうことを踏まえたうえで、私は私の未来ってやつをどうしてやりたいんだろうと、ぼんやり考えた。多分、精神論はもう沢山で、今まで充分色々なものに縛られてきたから、これからは自由にやっていこうと思っている。自由っていうのは、責任が全部自分にあるってことだ。責任っていうのは、自分が選んだ未来の先を直視する覚悟を持つってことだ。
望む幸福は色々とあるけれど、どれも自分一人では叶わないものだから、そういうものを目指して生きるのはやめようと思った。そんな博打のような未来に覚悟を持って生きていけるほど精神は頑丈じゃない。

だから多分、どこに向かって生きているのか、はなるべく孤独に向かっている、が答えなのかもしれない。(死が孤独だとしたら模範解答だろう)
一人で生きていけるだけの力が欲しいと思う。それは社会的なことであったり(地位や名誉や能力ってやつだ)、精神的なことであったりする。孤独に生きていこうというわけじゃなく、一人でも何かに耐えうるだけの強さを得なければならないと思っている。

勿論、誰かに頼ったり頼られたりするって言うのは必要なことだけども。

この先どうしていきたいのか。
ただ、それでも、なるべく 明確に具体的に未来を言葉にして、自分の進路を固めてしまうのは避けていきたいと思う。
(予防線で躓くような事は避けたい)



名を持たぬ日々の累積ただそれを死ぬまで続く日常と呼ぶ 

10/14/2011

自縛霊・彼・使命感に笑顔

夜も寒いし朝も寒いし気付けば昼間も寒いみたいな季節になっていた。

あっというまに二桁月である。

自分の環境が大きく変化して、意外と順応も早かったりしてなんやかんや時間が過ぎるというよりは、時間を追いかけていた感じがします。
物凄い沢山のものを得たし、物凄い沢山のものを失ったし、これが等価交換だって言われたらハハハって笑うしかないです。大抵の物事はもうハハハって笑うしかない位置までしかいきません。
世の中の出来事は大丈夫か大丈夫じゃないかの二つしかないので言葉にするととても簡単に思えていいですね。生と死しかないから生物は単純って言ってるようなものです。

そんなわけないじゃん(小声)

はっきり言ってしまえば大学卒業までに所持していた物の5/6くらいを失ったわけです。
これはすごい、震災で家とかモロモロ失った人並です。過去が消えるって凄いです。
大事なものとか沢山あっても「命の方が大事でしょう」って言われたらもうそうとしか頷けないません。他の誰でもない自分の理性が納得してしまうので、どうしようもない。

しかして、自分がそれほど物に対してアイデンティティの依拠を行ってきたかと言われると、笑っちゃうくらいモノに対して諦めが早いのである。
まぁこれは「いつ壊るか分からない」っていうのを常に諦めって形で抱いていたからだともいえますが。
自分は、昔から「家」といわれてはっきりイメージできるものがなくて、所謂「実家」というものはあってもそこは帰る場所という認識はなかった。小学校低学年くらいから家は嫌いだったし、4,5年ごとに住む家が変わっていた所為もあるのかもしれない。
帰る場所という意味で「家」といわれてもいまいちピンとこない。

自分はどこに居てもどこにも居ない気がしている。
フワフワとした足のつかない、というよりは足の無い浮遊感。
不安でもないけれど、自分でもある日突然自分がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと不思議な杞憂に揺らされる。

それでも意思だとか矜持みたいな、ものはもっと無形の、有形ならば生命体に残してきているはずなので、なんとかなっているんだと思います。たぶんたぶん。

まぁただそれでも死ぬことからは随分遠くになった気がする。
生物的には死に近づいている筈なんだけどね。

どうしてこう、生きるってのは不便なことなんだろうか?ってのはいささか幼すぎる厭世なのかしらん。

10/03/2011

そして何処にもいけない


音楽と溢れる詩に自らの言葉が吹き荒び失われ行く気がする。

それほどでもない人生。

過去が遠ざかっていくのを感じる。(前にも書いたかもしれない)
自分の中で認めたくない連続性というものがあって(黒歴史なんかはまさにそうだろう)、数年前の自分なのにまるでアルバムの写真を見ているみたいに、切り取られた「思い出」の一つとして自分(の感覚)を認識していることがある。
昔の思い出を語るときのそれは、なんだか紙芝居みたいなよそよそしさを持っている。

そういったものが、段々フィルムになっていくように自分と連続している過去だったのだと、鈍い実感を伴うようになってきた。一言で言ってしまえば、生々しく気味が悪い 居心地の悪い感覚が燻る。大雨の日の運動靴みたいな ぐしゃっとした重たい実感。

一方で、自分の現在地点がふっと飛ぶことが多くなった。
連続の実感でレールが繋がったのだろうか。
重たい実感は現在の碇になりえると判断したのだろうか。

誰かと歩いているとき、ゆったりとした空気が漂っているとき、ふと体の中に一年前の自分が入り込むことがある。本当に瞬間だ。
そうして今私はここでこの人とこの場所を歩いているんだろう?
と、突然分からなくなる。現在地点に違和感を感じる。

あれどうして、
と思ってああそうか今ここはXXで、XXの帰り道で、そうだこの人は友人で、とじわじわ思い出す。
もしかして、
一分一秒毎に止まった世界点があって、その中を魂みたいなものが滑っていくだけで、僕ら時間を感じているのではないだろうか。
パラレルワールドって本当は何も動いていない数多の静止世界のことなんじゃないかしら?
きっとこう(右手をくるりと)している座標の世界と、こう(ぺたん)してる座標の世界があって、私の意識がそれを交互に彷徨うから、ぱたぱた動いてるだなんて認識しているだけなのかもしれない。

気味の悪い過去は、そういった世界を擬似的に彷徨うときの乗り物酔いみたいなもので、
気付かない居心地の悪さは車の中で寝てれば気持ち悪くならないとか、
乗り越えたトラウマは実は唾のみこめば治るとかそういうレベルの話なのかもしれない。
宇宙規模で考えれば。


(そう、宇宙規模で考えれば。)


一人になった部屋で、椅子に座って目を閉じて、なんだかフワフワする電子音楽を聴きながら、目を閉じてパラレルワールドを旅する想像をしてみる。
思い出せる大半は苦い過去で、痛い過去もあって、辛い過去もあって、楽しい過去は大体切なさが混じっている。過去なんてそうそう味わって思い出すものじゃない。

ただ、そういえばこんな悲しみを背負っていたなと
あんなに夕暮が鮮やかに見えていたなと
かつての視点に少しだけ潜り込んで、広がるパラレルワールドに宇宙とか感じてみたりして

そんなことをして生きてる実感とかいうやつを
時間というフィルタを通して苦笑気味に味わっているのだろう。

随分と、莫迦みたいな遊びだと思う。

9/26/2011

きっと走馬灯は秋に走る自転車のように

目を閉じると薄荷の様な寂しさがすっと胸を流れる。

残暑というにはあまりにも記憶に薄い真夏が過ぎて、九月もそろそろ終わる。
先日の台風が僅かに残っていた夏を攫い、代わりに町を覆う煙たいような、甘みを含んだ夕方の風の香りが秋の訪れを感じさせる。

九月は終わりの季節だと、思う。

一年の区切りというものは人によって様々で、一月で区切る人もいれば四月を初めとする人もいる。自分も十二月には一年の終わりを、三月には別れの期を感じるけれど、それらは次なる始まりがすぐに待ち構えている。
私にとって九月はただただ終わるだけの季節だ。

新学期が始まり、夏休みという非日常がどんどん消えていくあの落ち着かない感じ
高校の頃は文化祭が九月だったから、その所為もあるのだろう
だいたいのイベントは九月で終わり、そこから先は平凡で日常的な生活が続く
大学の頃は単純に夏休みの終わりだった。
そういうものが混ざり混ざって、九月の記憶を作っているのだろう。

九月には、糸が解けるようにするすると様々なものが終わっていく。
そして十二月という一年の終わりを先に見る。
「今年も、もう終わっていくね」
と呟いて、早くなった夕暮れと肌寒くなった空気の中でデジャヴュに惑いながら、何か忘れてきたような、何か失くしてきたような、喪失感に襲われる。
何かを失くした九月があったのかもしれない。

感傷的というにはあまりにも漠然としていて、帰る場所が見当たらない。
寂しさや切なさというものは、求めるものがあって初めて行き場を失う。
原因も求めるものも無い喪失感というのは、ただ風船のように放たれて目の届かない上空で消えるのを待つしかない。心に留めることも出来ないまま、哀愁は垂れ流しである。

ただなんとなく九月になると何かが終わる気がして、何かが終わったような気がして少し寂しくなる。それだけのことで、こうしてずっと年を、秋を重ねてきた。

日が落ちて、金にも朱にも紺にも染まる西を背に
闇に溶けて輪郭を失っていく長い影を見ている。

九月が終わっていく。


2/03/2011

ブログ移行しました

Bloggerがちょっと使いづらくて、はてなダイアリーに移行しました。
広告が無くてシンプルで良い。

ただ、ちょっと書き方が特徴的なので、慣れるまでもやもや。

昔の記事も、結局HTML編集してたりして、嗚呼こうやって必要から知識は増えていくのねって…

http://d.hatena.ne.jp/Rfeloa/

今後もご贔屓いただければ幸いです。

1/26/2011

「昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ」

「昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ」

昨日、よく行く喫茶店の金魚が死んだ
黒いやつだった
おれはよくその金魚を見ながら
不味いエスプレッソを飲んだもんだ
金魚のために気取っていたんだ
あいつ

小汚いウエイトレスが
しょっちゅう注文を噛むところなんて
滑稽だったぜ

(エシュプレッソ)(エスプレッショ)(エツプレッソ)

メダカを殺したい
なぜメダカではなくおまえが死んだのだ
運命か

おれはもうあの喫茶店にはいかない
エスプレッソがクソまずい
あと高い
しねよ おれ以外の全部

昨日よく行く喫茶店の金魚が死んだ

1/01/2011

今年が始まります

あけましておめでとうございます

どうなるのでしょう今年は。
兎に角、大事なものはぎゅっとして、新しいものを作ったりしていきたいですね。
絵でもアニメでも人間関係でも。

今年もよろしくお願いします。
あなたにとって歓びある一年になりますよう

平成23年.元旦

12/30/2010

今年ももう終わり。

雪が積もって、花が降って、光が溢れて、色が満ちて、また雪が積もっていきます。
そうして1年が過ぎてゆきました。
香りや温度が移り変わるたびに増えていった記憶が、重みを持って存在感を色濃くしていく。

今年は本当に色々な事があった年でした。
内面的にも少し整理できたし、外面的にも進歩はあったように思います。
人との関わりってものを本当に嬉しく感じる一年でした。
やりたかったこと、自分一人じゃきっとやらなかったこと。
そういうものがあって、色んな人のお陰で沢山のことが出来た。
Twitterでも何だか会ったこともないのに、同じ大学の人達でやんややんや言ったりして
雪が降るとそれだけで皆同じこと言ってて、チャットとは違う面白さがあってすごく楽しい。

思いつきを垂れ流すって意味では自分に最適のツールなのでしょう。

なんでもないような一日が
とても輝いて思える時間があって
きっと間違えたり、躓いたりすることの方が多くて
多分その中で得たものが今の自分を創っているのだろうなと、感じている。

空の綺麗さだとか、空気の濁りだとか、緑の匂いだとか
そういうものを共有できる人がいて
ああ私は今とても幸せである。
偶然のような切欠で知り合った人達ばかりだけど
大体長い付き合いになっていて、運命というやつは真面白いものよのぅ、などと嘯いている。

今年もこうして1年が過ぎてゆきました。
これから春になる。
何もかもが上手くいくとは限らなくて
それでもどうにかなってほしいと願っている。

学生生活の締めくくりにはとても楽しい一年でした。
多分、学生らしい楽しさがあったと思います。

今年一年ありがとうございました。
今年の最後はこの曲で締めくくりたいと思います。
<マメシバ/坂本真綾>

12/28/2010

薄明前夜

瞼の奥に光る夢が
さよならのように積もっていく

口ずさむ歌の
思い出せないフレーズを
夜に溶かしたまま 歩き続ける

どうにかして流れゆく時間を
止めようとしていた頃もあって
曖昧な未来に安心していた僕もいた

今、遠く音楽が鳴り止まない

涙の奥に響く雪が
思い出のように積もっていく

12/24/2010

乱暴と待機



金沢シネモンドでやっていたので観て来ました。
一言で言えば

登場人物4人が総じてクズで良い


原作も読んでいたのですが、とても楽しめました。(ただ、結構忘れている部分はあった)
90分という時間が最適な映画で、本の内容を余す所なく映画にしている感じ。本谷有紀子さんは脚本家でもあるらしいので、その辺り物語の進め方とか構成がもともと映像向きなのかもしれません。

映画の内容は
何より
小池栄子の演技ヤバい
イラッとする感じ上手すぎる。もうこれは多分キャスティングの成功でしょう。

最初こそ登場人物の演技だとかに違和感を覚えるんですが、段々慣れてきてブラックかつシュールな笑いを誘う感じは原作そのままでした。
こう、「少し過激でなりふり構わない苛立ち、そして惰性で続く日常」がある
のがこの人の(乱暴と待機の)味なんですが、それが本当にうまく映画で出ていたと思います。
日常が狂ってるんだけど全員が「自分は正しいんだ」って思い込んでて、でも間違ってる事も気付いてるっていうのがこの物語にある雰囲気なんですが、映像化するとその狂いっぷりがイイ味出しまくってます。
自転車が部屋に突っ込んでくるシーンがあるんですが、それが当然のように話が進むんですよ。
あとは仲良くもない4人がキャッキャしながら人生ゲームしてるとことかイー具合に気持ち悪くて、あのシーンがこの映画の全てを表わしていたと思います。

また、音楽のズレた感じが、彼らが総じてクズでどこか間違った方向にズレている感じを出してます。主題歌の相対性理論の雰囲気がそのまま効果音?になってますね。
主題歌のチョイスも言うことなしです。

本だと結構、淡々とストーリィが進む感じだったんですが、映画にすると「覗き」「性格の悪さ」あたりが強調されてて、まさに『乱暴と待機』ってタイトルが納得いきます。

非常に良い映画でした。


…ここ最近は地雷踏んでないですねw

12/21/2010

声涙は積み重なって

何が正しかったのか
なんて問いかけはきっと、思い込みの一言で全部間違いだったって答えになってしまう。

ソラニンで
種田が人生の行方を決めてから、原付に乗って走りながら
幸せだ、これでいいんだと呟き、
鍵に付けられたキーホルダーに
「本当に?」
って聞かれて、薄く笑いながら自分を納得させるシーンがある。
本当に? って声を耳の奥で響かせて
右手を強く、手前に回す。
シーンがある。

夢って何だったんだろうか。実現可能性って何だろうか。
失恋しても、絵を完成させても、今日が一番楽しくても、生活は続く。
  あの頃のぼくにはもう、戻れないよ。
自分の人生で、思い返せば分岐点だった場所がいくつかある。
その瞬間に戻って、違う道を歩けばきっと違う未来があったろうと思う。
それでも、この道を選んで(しまって)それで得た、微かなものを失ってまでやり直したいとは思わない。多分最終的に間違った結果も、正しいと思っていたその途中過程は自分にとって大切なのだと思ってる。恋愛も進路も、生き方全て。
今持ってるものを失うのが怖いだけだけど。
  例えばゆるい幸せが、だらっと続いたとする。
今日も世累は積み重なってまとわり憑いている。

それでいいの、って耳の奥で響いてて
いいとか悪いとかじゃなくて
薄く笑って、いいんだよ、としか答えられなくて
  小走りで路地裏走って思い出してみる
クレヨンしんちゃんの大人帝国って映画で、悪役が、敵対するしんちゃん一家の足掻きを見て、ふと「最近全力で走ってないなぁ」って愛おしそうに、哀愁をこめて呟くシーンがある。
思い出してみるって、そういう事なのかな。

4年間で一番楽しかった、と断言できる4時間があって
そこには、何も無くて、時間と空気だけがあって
ただ喋って話して、歩いていただけで、ただそれだけで
きっとそういうものが毎日続いていた時期もあった。

なんて、今更どこで何を言おうとしているんだろう。


12/17/2010

眠れない時は深い海にゆっくりと沈んでいくようなイメージだ。
身体だけがすっと下に落ちていく
マリンスノウみたいに

意識だけを上に残して
そうやって肉体と魂を擬似的に分離させてみようとする

携帯電話を握り締めて毛布に包まって仮眠をとることが多くなった
2,3時間の断続的な睡眠を繰り返すから
きちんとした時間に寝ても4時くらいには目が覚めている。

どこかと繋がっていたいのだろうか
単純に寂しいだけなのかもしれない

もう嫌だ、と思ってもどうしようも無い事ばかりだ

誘導灯は月色に光る

ask for the moon 
という言葉がある。
月が欲しいと願う、転じて「不可能を望むこと/無いものねだり」の意となる。
日本語で一言で言えば「覬覦(キユ)」であろう。


人の欲求は果てしない。
しかして、どれほどの願いが月ほどの物が欲しいという願いなのだろう。
「些細な願い」とは一体何を基準に些細としているのか。
物事における疑問点は「誰にとって」という意識から考えれば理解し易い。
誰にとって些細なのか。
そう考えたとき、そこに修飾される言葉は”(現在の)自分”ではないことに気付く。
「他人にとって些細な願いが、どうして自分にはこんなに難しい願いになるのだ」
結局の所、全ての事象は差異によって、相対的に認識・評価せざるを得ない。
羨む・妬むというのは意外と理性的な感情なのかもしれない。
恵まれている事と幸せである事を、時々混同させている。

「自由が欲しい」と思ったとき自由を金に変えたとしても大体の願いは叶うだろう。

自由は金で買えるものなのかもしれない。
そして不自由というものが時間的制約による行動制限という意味ならば、時間は金で買えると言える。
ただの論理式だ。


目を隠したまま「家族って何だろうね」と傍らで呟いた。
家族・恋人・友達だとかというのは集合体名ではなく、状態の名称なのだ。
液体・固体のような。
だから、理想の○○というものを自分で描いてしまうと上手く行かなくなる。
「毎日会いたい」と思うのではなく「毎日会うのがカップルなのだ」と思い始めると大体その関係は瓦解していく。理想の押し付け合いがの関係の溝を深める。
少なくとも自分の理想は相手の理想ではないし、「普通は/一般的には」という言葉は自分にとって都合の良い言い訳でしかないのだ。しかしそれに気付くのは難しい事なのかもしれない。

本当は、両者の中でお互いに相手を友達・家族・恋人だと思っていれば、それでその関係は完結しているはずなのだ。言葉の定義を考えるのは学問の中だけで良い。

おそらく家族・恋人・友達という言葉がなければもっと上手くいっているのではないか、という関係は少なからずあるだろう。

「何であってほしいの」と答えて、寂しさの端を舐めた

そういった理想形が僕らにとっての月なのかもしれない。
自分一人では手に入らない。
そうやって地面に転がっているものを踏み壊して、幾億の星を見捨てているのではないか。
足元のスミレで満足できればきっと、それが幸せの価値だと思う、
思っていたい、
のだろう。

とちゅう

12/15/2010

12/11/2010

そのうち

そのうち色塗る。

シャッターアイランド

シャッターアイランドを観ました。

以下、批評&感想。
ガチのネタバレは反転で読めるようにしてありますが、本気でこの作品を楽しみたい!って人は読まないほうがいいかも。
ユージュアルサスペクツ系なので、前知識があるとちょっとスリルが減るかもって意味です。
ま、あんまり読みたくない人はハイライトだけ読んでりゃいーよ★

ザックリと感想を言っておけば面白かったです。ただちょっと観るの疲れるかなー…。




12/08/2010

ソラニン



観た。
良かった。

ギター初めて描いた、難しいです!

晴れ渡る、君と

神戸に行ってきました。ルミナリエ見てきました。
久しぶりに遠出した。枕が変わると上手く眠れないくらいにawayが嫌いな子なので、今回も「行こうよ!」という有り難いお誘いにホイホイついていく感じでした。あはは
外出が嫌いな訳じゃないんですが、自分の知らない場所・人というものに物凄く抵抗があるので、これから住むとか仲良くなるって前提がないとガチガチです。あまり踏み出しません。

日帰りだったので半日観光だったわけですが、観光名所はだいたい回って、適度に旨いもん食べて、ぐだぐだしつつとても楽しかったです。
フレキシブル&ポジティブな旅でした。
大体適当に決めて前向きに考えるって非常に楽。気の置けない仲の典型例というか理想型なのかもしれません。

一つ一つを丁寧に解説してもアレなので、あんまり神戸レポートはしませんが。
ルミナリエ綺麗でしたよ。

12/04/2010

4こま×2


久々に漫画かいた。

院に受かりました。
色々問題は山積みだったりしますが、応援と心配してくれた皆様、ありがとうございました。

11/30/2010

多分、過分なのよ!

多分そのうちブログ移行すると思います。

改行レイアウトが気に入らない!

夜が近付いても歩き続けていた

落ち葉の色が赤から黄色になって、吐く息の白さに驚かなくなった。

空には星が輝いている。夏よりも多く見える気がする。知っている星も夏より多い。

時が流れるのは早い。
そしてそれよりも、自分の知らないところで流れている時間の方がずっとずっと速い。
久々に友人や後輩と話すと、自分の知らないところで沢山の事が起こっていたり、多くのものがなくなっていたり始まっていたりする。自分から距離をとればとるほど、その速度は上がる。
おそらく、自分の時間軸とは別に捉えている所為だろう。
全く知らない人の人生は一瞬に思える。
もしかしたら、地球を外から見たとき、46億年なんていうのは一瞬なのかもしれない。


そういえば小さい頃、漫画や作品にのめりこんで自分がそこに居る空想をすることがあった。
登場人物達は物語の外で私と一緒に遊んでいたし、世界の端に作者もしらない私が作った場所があった。
大人になって、作品はただの作品なのだと、登場人物はデータなのだと気付いてしまった。今では、私はいつも現実に居座って彼らを眺めている。
あの頃の自分にとって物語は作品ではなく「違う世界」だったのだろう


この間、教授と勉強というものについて少し話した。
「私も先週61歳になりましたけど、やっと刑法がちょっと分かってきたかな、と思いました」
と先生は言った。自分の専門でさえ、教授が61になって「ちょっと分かった」というほどなのだ。
学問は奥が深い。


講義で”○○学”というものを教えるのは難しいらしい。
研究者は○○学の更にその先を細分化させた一分野について研究しているものだから、その学問について幅広く講義しろ、と言われても中々その面白さを伝えるのは難しいのだそうだ。
「面白く、分かり易く、それでいて深く、という講義を目指しているんですけどね」
と先生は困ったように笑っていた。


たまに触れる専門外の知識がとても面白く感じることがある。
いつの間にか自分の専門についての勉強は嫌々になっている事がある。
結局それは、新鮮味の違いなのだろう。
自分の専門だって、疑問が増えて調べだすと数時間あっという間だったりする。きっと表層知識では新鮮味が感じられないくらいには知識量は増えてしまったのだ。しかしその奥に進むだけの興味は、知識量の増幅でしか得られないという矛盾が、勉強の面白さが分かりにくい原因だろう。


図書館を出て歩き出すと、冷えた空気にすっと脳がクリアになる。
ポケットに手を入れて一人、暗くなった大学を歩く。どこか遠くで管楽器の音がする。
あとどれくらいこの場所に立っていられるのだろう。

11/23/2010

Owl City - Fireflies



今日の一曲目だし
明日の一曲目にもしたい。

ささくれた心に染み込む歌と映像。

11/18/2010

11/15/2010

しをりる/しをりら

Skype等のアイコン使用中の絵。

本当は栞に出来るようなものを作りたかったのです。

割と気に入っている絵ではあります

背景はフリー素材なので若干適当。

11/12/2010

雑記

暗澹たる雲の上には三日月の宿る夜空が広がっていました。

ぎゅいぎゅいーってな感じでベジェ曲線ではじめて線画描いてみましたの。
やっぱり手書きよりもずっと綺麗ですね(当たり前か

妹と久々に電話で話して意気投合してました。
色々と異常だよね、うちは。って喋ってました。姉妹っていうのも悪くないですね。
普通は、ってのが常套句なんですけど一番オカシイのは自分だったりするイイ例。
姉として出来ることがあればしてやりたいです、
とか思えるくらいには、自分も余裕が出来てるって信じたいの。

将来の事とか言われても本当はあんまり上手くいってないし
刹那的に生きてきたから実は来年も再来年も自分が居るイメージが湧きません。
というかそもそも問題を解決しないことにはゴールは見えないわけでzzz

うん、だからこそかな。
1ヶ月後の予定とか決めるのが苦手ですの。あふあふ×××ってなります。
来月の何日、3ヶ月後のこの日こうしよう?って言われてもそれまで私生きてるのかな?って
2週間後の予定が限界です。それ以上は現実味がないです。
自殺とか、そういう意味じゃぁないんだけど。難しいですね。
  難しくしているのは自分だよ(とか犀川先生は仰るのです

気付くのに時間の掛かる事が沢山ある。
そういうのは大抵、問題の難しさより、自分の内面の余裕によって左右されている。



ってこれは過去の自分の言葉の引用ですけど。(9/9青春の欠落)
ののの。そゆことです。(どゆこと?

そんでもって面倒に思えてきたコミュニティとか。
それって結局個人×nが面倒になったって事じゃなくって?とかとか
否定はしないけど。
嫌いとか悪いとか憎いとか、そういうのをあまり口にしなければ穏やかな人間関係は築けます。
温厚さって、そうやって構築されているものではありませんこと?
ラジカルな意見が敵を作るのはドコも一緒ですね。


紅葉が終わっていきます。
冬がくるのですね。来週から暖房が入ります。
ぽかぽか、したいの。

11/09/2010

Now Reading……

【最近買ったもの】
喜嶋先生の静かな世界/森博嗣
目薬αで殺菌します/森博嗣
理由/宮部みゆき
人質カノン/宮部みゆき
しをんのしおり/三浦しおん
推定無罪(上・下)/スコット・トュロー
子どもたちは夜と遊ぶ(上・下)/辻村深月
宮沢賢治詩集

本ばかり増えていく。
自室が図書館化していく。うむうむ。
本好きとしては「何か本あるかなぁって…来てみたー」なんて言われたら、うきうきしながら3冊くらい貸してしまうでないの。
そして紅茶を飲みながら長々と本の話が出来るのは至上の幸福である……。

11/08/2010

曇り空、雨模様


曇っているのはこころですか。
泣いているのはお空ですか。

11/06/2010

イきるものの叫び

夜。
11時くらいに街のスクランブル交差点の端で、パフォーマンスを見た。

ユキンコ アキラ

この人の、リズムパフォーマンスというやつ。
肩からポータブルDJボックスをぶら下げて、流れるリズムに乗って踊ったり走ったりしながら、キャンパスに絵を描いていく。
Go my way!!!
叫びながらスプレーやらを使って描いてく。

呑み会帰りの若いお兄さん達が盛り上げてて
Go my way!!!
って踊りながらのソウルフルシャウト。
お兄さん達もシャウト。

凄く良かった。
上手く言えないのがもどかしい。

芸術は人の心に響く。
お気持ちBOX、と描かれた缶の中に200円落として
「ありがとう」って言われて、手を握った。

細くて、男の子にはもうない、年を重ねた皺。
温かくて、壊れ物を扱うように握手して

ああ、人間が作ってるんだ

と感じた。
好きな人と手を繋ぐときでもない。女の子の手を握るときでもない。
触れ合う感覚。
こんな事でしか人間味を感じられないというのは、少し情けなくて虚しくて愚かな話だけれど、こうやってスプレーに汚れた温かい手を握って、そうやってやっと、魂の叫びみたいなのに触れられるのかもしれない。触れていると気付くのかもしれない。
空気を震わす音も、濃い匂いを放つ油絵も。
何よりも僕らは温度によって人間を知る。生きている事を知る。

心震えた、23時。

11/05/2010

野狐禅

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさが欲しかった。

吐き出す言葉の重さを知っている人は、とても言葉に気を使う。
それは時に残酷な予防線を張っていたりする。ただ、そういう自分に対する優しさは必須だ。

絶対だとか永遠だとか、そんな言葉は使えなくなった。一方で、どうでも良い嘘を簡単につくようになったのは、何かに対する緩衝材なのかもしれない。適当さだとか、斜に構えてみたりだとかっていうのは自分自身、みたいなものを直視しない方が良いことを知っているからだろう。
全力で生きていると、落ちるときも衝突するときも きっとそのスピードだからね。
80%くらいを気取っておいた方が、それくらいが全力の振りをしておいた方が後々楽だって事を段々知っていくんだろう。頑張れ、みたいな暴力に対しての切り札かもしれない。

思いやりと頭の回転の速さっていうのは人間社会の中にいる中で最上の防御になる。
思いついてから、それを言うべきか言わざるべきか、をきちんと判断して行動できるという賢さ。
素直に尊敬した瞬間だった。

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさは欲しかっただろうか。

単純だったものはいずれ知識と共に複雑さと難解さを孕んでいく。
全ての事象は樹木のようになっていて、幾千幾億の枝先と根が広がっているのだ。
成長すればするほど広がってそしてやがて端から朽ちていくのだろう。
「やっぱり家が一番」みたいな顔して、死ぬ間際に幼かった頃のシンプルな思いを口にしたりするのかもしれない。失ってみて初めて気付く大切なもの、なんてのは遣り尽くされたテーマだけども、やっぱり始めから持っているものの価値を知るためには、そう簡単にはいかないのだろう。最初から持っていないものの価値だって、そう簡単にはいかない。

pricelessというのは日本語の慣用句、「値無き宝」と訳される。
tintinnabulationが、もゆらと一言で表わされるように
この世にある言葉はあるべくして生まれているんだろう。必要とされて生まれる感覚なのだろう。誰しもが得る感覚なのかもしれない。欲しがる言葉なのかもしれない。

Noting so sure as death
死ぬるばかりは真

「否定も徹底すれば肯定になる」
と言ったのは血盟団事件の主犯、井上日召ですが
嘘を真に塗り替えることすら可能なこの世で、死ぬことだけは唯一絶対の真なのだというのは昔から言われている様です。

嘘と難解さと煩雑さに絡まりながら
そうやって段々ゆっくりと、真に近付いていく。

11/04/2010

急いでアリス

夢の中で 光の出口
遠くにいる優しそうな、少し太ったおじさんと、痩せたおじさん
本棚の隙間を抜けて
蛇にだって兎にだって騙されないようにしながら
靴音ならしながら
逃げる
迷う
早く急いで
本棚の隙間を抜けて
夢から醒めた 夢
本棚の隙間を抜けて


走り抜ける アリス







Winter Girl

10/31/2010

グッバイ・イエロー



すごいみんながんばってる。
あたしはとっても高いところからそれを見ていた。

大人はみんなあたしに勝手な期待という名の妄想を押し付けてきて、あたしはあんまり頭に来たから数学のマークシート、全部一個ずつずらしてやった。数ⅡB、きっとセンセイは吃驚するだろうな、次の模試が返ってきたら。××、ちょっと来い、とか鼻の穴をふがふがさせて言うに違いない。私達の担任の数学教師はいつもふがふがさせながら怒る。××、ちょっと来なさい、ふがふが。うひひ。

嫌になっちゃったのは2ヶ月前。
歩いていたときにふっと鍵尻尾の白猫が前を通った時だった。
それまで何も見ていなかったあたしの硝子の目玉は途端に色を認識しだして、世界が物凄く鮮やかに見えるようになった。鍵尻尾の白猫は全然可愛くなくて、だけどその傍にたんぽぽはゆっくり揺らいでいたし何だかよく分からない草も青々茂っていたし、白猫の背中にくっついたままの小さな赤っぽい虫は世界の行方なんて全く考えてないみたいだった。
それでそれまでのそんな世界の美しさみたいなのに全然気付かなかった自分が情けなくなって、あたしはもう世界に合わせて歩くのをやめた。
休日はずっと青空を見ていたし、
帰り道には学校から最寄り駅までどうにかして1000歩で歩いてみることにした。
青猫を見つけたら追いかけることにして、
数学のマークシートはずらした。
世界はこんなにも美しい。らいふいず、びゅーてふる。
あたしは一人で沢山笑った。

家族は嫌いだよ。
皆死体みたいな臭いがするもの。

ここからこうやって眺めていると
みんな物凄く頑張っているのが見える。足早に過ぎ去っていくサラリーマン、参考書を抱えてる女子高生、居酒屋の服を着て走ってるおとこのひと…皆すごく頑張っている。
ここに居るみんなが、ぜんぶあたしよりもずっと頑張ってるの。凄い。
あたしがこうやって85分間ずっと夕焼けを見ている間にも、みんな知識を詰め込んだり吐き出したりして次の予定を考えてる。ねぇ知ってた?太陽って沈むのも昇るのもすごく早いの。朱色は金色と混じって暗くて灰色になっていく空をとても美しく染めるんだよ。
誰も知らないと良いな、と少し思った。あたしだけが気付いていたらきっとすごく価値がある。そんな気がする。
みんなあたしよりずっと頑張って生きてるの、凄いね。
うひひ、と笑って見せた。びゅうびゅう吹く風がいやらしく制服のスカートを捲り上げる。
凄い。
夕日も凄い
綺麗。

あははっ

人生を最高に楽しそうに終えながら
彼女は
48階の
ビルから
踊るようにして
舞い散る木枯らしのように
ひゅーーーーーーーーーーーーーーーーーんと
くるくるくるくる と

飛び降りて
ぐちゃぐちゃになったけど

やっぱり今も楽しそう。

あははっ

10/29/2010

寒椿

涙が止まらない儘に

多分ずっと走り続けてきた

物凄い速さで進んでいく、変わっていく。
自分の周りは驚くほど早く変化に適応している
テキオー灯
欲しかったな。

したかった事はいくつかあったけど
それらはやがて思い出になっていって
今、もう

毎晩のように夢の中で
恐れていたことばかりが起こって
はっとして目が覚める。
気付かない内に磨耗していく神経

分からない事ばかりで
迷ってばかりで
申し訳なくて

涙は止まらない儘に

あんまり良い子じゃないね。

囲う苦痛/過去 鬱屈


もしかしたら私は五千年生きていたのかもしれない、と思った。

少しずつ抜けていく記憶、混ざりつつある思い出に怖くなった事もあった。
8年前の事だったからしら、9年前の事だったかしら。
私には弟なんていないのに、この記憶は、現実ではないの。あの日読んだ物語の中の話。
段々過去は混ざって、現実と虚構の差は曖昧になってくる。あの時降っていたのは雪だったかしら、桜だったかしら。
ぎいぎいと脳の奥が軋みだす。分からなくなる、気付いてはいけない何かをわざと見落としているみたいだ。そしてふと思った、私は本当はもう五千年くらい生きてるんじゃないのかしらって。

生まれたときのことを覚えている
なんていうのは、後から見つけたアルバムの中の写真で確認したことだから
もしかしたら私、八千年くらい前に作られた木彫りの人形に魂が宿っただけかもしれなくて
中も見たことないから、本当にあんな、あんな赤黒くててらてらした臓器や絡みつくような血管が走ってるのかも分からなくて。ぱっくり開いてみたら案外中身は木屑だったりしないかしら。
考えてるのも私のやってる事かしら。
うふふ
誰か私の考えてる事、作ってるのではないの。

五千年も生きてたら、きっと
三千年くらい前の事なんて、七百年前の事と区別つかないかもね。
昨日ついたと思っていた傷は、五十年前のものだったりして。
もうね、きっと四千九百八十年間の事は、殆ど忘れちゃっているのよ。
ごめんなさいね、初恋のひと。

あぁ早く死にたいなぁって
何回思ったのかしら、私。

もうずっとこのまま、時が止まればいいのにって
何回願ったのかしら、私。

愛してるって何回言われて、好きだって何回言って
ごめんなさいって何回
赦してもらえたのかしら。

夜の奥から吹き荒ぶ冷気は、この古い建物の汚れた窓ガラスをみしみしと揺らし、一人怯えている私へと密か寄り添ってくるのでした。星も見えれば何か変わったかもしれませんが、生憎月すら見えず、こんな夜ではよだかも星になれまい、と空想の悲しみに思いを馳せているのです。痛くなる胸、いえ心のようなものを必死で守りながら、右手の人差し指で右足にゆっくりとSの字を書いてみました。それから少しずらして、横にOの字を書くと、それだけで右足はいっぱいになってしまい、最後の一文字は諦めるほかありませんでした。ゆっくりと朝に近付いていく夜は、恐ろしく、荒めに呼吸をして生きている事を確かめる他、生き延びる術は無かったように思います。

残念ながらもう忘れてしまった四千九百八十年間の中で
やってなかった事はなんだったかしらって
最先端の機械を触りながら少し楽しくなるの。

そうやって笑う私は
二人いるみたいで、それはまるで、
ゆっくりと狂っていく
古時計のようでした。

10/27/2010

もゆらティンティナビュレーション

囈 語


憤懣はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく騰って
河谷のそらに横はる
しかも
水素よりも軽いので
ひかってはてなく青く
雨に生れることのできないのは
何といふいらだゝしさだ



詩の朗読会とかしたい、とふと思った。

囈語(げいご)、というのはうわ言、寝言、という意味です。
初見の漢字や熟語でも、見た瞬間にぱっと読めるようになってきました。意味もだいたい分かります。勿論、文脈もありますし、どこかで見たのを忘れていて知識だけが無意識に沈んでいるだけかもしれませんが、言語の真髄を見たような気がしました。
英語も、もしかしたらこんな感じなのかもしれません。

さて、言語、賢治といえばエスペラント語ですが、
この間、少し調べていたら本当に美しい言語なのだなと思いました。
______________
Ami は「愛する」という意味です。接頭辞や接尾辞をいくつか覚えれば、簡単に新しい単語をつくることができます。
Amo(名詞は -oで終わる。)
Amego情熱-eg は「大・強」の意。)
Amas愛している-as は「現」の意、すなわち現在形。)
Ekamas恋に落ちるek- は「始」の意、または瞬間の動作。)
Ametas少し愛している、好き-et は「小・弱」の意。)
Amegasとても愛している、熱愛する-eg は「大・強」の意。)
Malamas憎むmal- は「反」の意。)
Malametas嫌いmal- は「反」、 -et は「小・弱」の意。)
Mi amas vin.私はあなたを愛している。


1つの意味を持った言葉がツリー式に変化して言葉を作っていく。
エスペラント語を学ぶと他言語を学び易くなる、というのはこれが言葉が作られていく根本だからでしょうか。特に「愛しているの始まり」で「恋に落ちる」という言葉の作られ方に感動しました。
言葉フリークなのかもしれません(今更)

最近、暇な時は短歌を考えるようになりました。
バスの中で指折り空想している人がいたら私です。

タイトルの言葉は朝一で思いついて、自分で感動しました。
まほらミスティフィケーション、に合わせて「ひらがな+英語カタカナ」を考えていたら思いついた言葉ですが、ここ3ヶ月で一番の閃きだったと思います。(少しうきうき)

未来は真っ黒ですけど、2分先だけが少し明るくて楽しいので短めに生きていきたいです。